2006/1/21  

雪の日の思い出。。 前編  生きること!!
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   みなさんこんにちは!

  今日は雪ですね。。。
東京にこんなにたくさんの雪が降るのは久しぶりです。。
でもそれ故、雪が降った日は何かと思いでに残るものです。。

 今日はそんな雪の日の思い出をお話しします。。
これまでのスポーツ人生で、色々なことがありました。。
その中でも、みなさんもご存知のように『陸上競技』が
私の人生のターニングポイントとなって、今の私自身、
またその生活の基盤ができあがったと思います。。

 そんな陸上競技を一度は諦めようかと思ったことがあります。。

1996年の夏、私はそれまでに感じた事のない腰の痛みに
見舞われていました。。
何か腰の中心部に異物が入っていて、それを動かさないように
その周囲の筋肉は極度に硬直しているような感覚です。。

 その年は、私が十種競技で好成績をあげて神戸学院大学から
中央学院大学にスカウトされた年でした。 中央学院大学の
陸上部は、当時の日本陸連の強化部長をされていた小林敬和コーチ
が監督をされていました。
小林コーチは十種競技の現日本記録保持者の金子宗弘選手や
私の尊敬する元日本記録保持者松田克彦選手を育てた日本十種競技界
の先駆者で、私は彼のチームに参加できた喜びを噛み締めて、
日々のトレーニングに明け暮れました。

 コーチの仕事というのは、選手にいかに100%のトレーニングを
させるかということです。。 そして選手の作業はいかに自分の
肉体を100%で稼動させつづけるかということです。
 そこには選手とコーチの100%の信頼と疎通が必要です。
そしてそこには、得てして歪みが生まれるものです。。
私とコーチの間にもそういった歪みがありました。
まだ付き合いも短かったことが生んだ歪みでしたが、その歪み
が私の腰に爆弾を生んでしまいました。。 
 
 私はコーチに認めてもらいたい一心で、トレーニングも
試合も休むことなく続けていました。。
コーチは、私の内部でうごめく痛みまでは見えるはずもなく、
痛みによって日に日に鈍くなる私の動きを、『緩慢だ。。』と
感じるようになりました。。
 
その心のズレが次第に大きくなり、私の体はその内部から
発せられる危険信号を無視して、歪んだ道を歩き出しました。。

 その頃、前年に優勝したドイツへの遠征試合に参加することが
決まり、その道は更にその歪みを増していきました。
私の腰はその時既に破綻をきたしていました。。
朝起き上がるにも10分以上の時間を要するほどの痛みに襲われ、
その痛みを消すために1時間以上もの入浴で筋肉をほぐして、
そのままトレーニングになだれ込むような毎日を送っていました。。

 そんな中迎えたドイツでの遠征試合は、その痛みを伴って余りある
肉体機能の向上が私を支え、2度目の優勝を飾ることができました。。

 そして帰国後すぐに迎えた日本インカレで、爆弾は動き出します。
痛みを乗り越えてまでも更に傷めた身体は、予想以上の強度を
発揮しました。 最初の種目である100mでは、それまでの
十種競技中で出した100mの最高記録である10秒76を記録。
しかし、ゴール後あまりの痛みに倒れこんでしまい、その痛みに
1人では歩けない状態に陥りました。。
 それでも次の走り幅跳びの試技に入り、迎えた一本目の跳躍。
踏み切った私の身体は空中で硬直し、全身が制御不能の状態で
そのまま砂場に叩き付けられました。。
 担架で医務室に運ばれ、涙ながらに途中棄権をしました。。

 その報告をしたコーチには、『海外で勝ったから国内の試合は
もういいのか。。』と写ったかもしれません。。
偶然現場にこれなかったコーチからは『勝手な判断での欠場』
として厳しい叱責を受けました。
我々の歪みはそれほどまでに大きかったのでしょう。。
それは私にも大きな原因があります。。身体の状態を報告する
ことをためらっていたのです。。 信頼しきれていなかった
故の失敗であり、コミュニケーション不足でした。。

 その後、大学病院での診察で、重度の脊椎分離症で、
分離した箇所がひび割れてしまっていて、腰の専門医でもあり
多くの有名スポーツ選手を診断しているその医師の判断では
『この状況で治った選手は1人もいないんです。。。』
『スポーツは諦めてください』というものでした。。

後編に続く

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