掲示板に「思いを書く」(投稿者 石部明)という、いい文章が載った。いい文章というのは、いま、川柳人の抱えている問題を言葉にして抽出、掲示された能動性への拍手だ。
この問題は多くの要素が立体的にあることを剖いて、いろいろな関連性を見ながら考えねばならないことで、時代を遡らねば見えないところもあり、それらを切り捨てて「思いを書く」ことに迫り難く、個人の、特に当方の手にあまることなのだ。
いま一つ、石部明さんの日々の、他分野への眼の配りや川柳についての諸問題を取り上げる、いわばジャーナリスティックな神経にくらべて、こちらはテレビでスポーツや映画を愉しんでいるのだから、自分には考えられることではないと思いつつ――、バックストロークの同志感情からは黙っていられない。
当ブログを見てくださる皆さんには申しわけないが、石部明さんと共通する問題意識が多分にあるので、以下、個人的な通信の書き方で少しでも「思いを書く」の問題に近づきたいと思う。
明さん。掲示板の「思いを書く」の問題は、現在の川柳人が逢着した問題であり、個々人の問題として進んで行くことと感じていました。まあ、これはぼくの引っ込み思案でしたが。
川柳全体を鳥瞰図に描いて、時の流れ、伝統の変革などを重ねて見るような人が、質の良い総合誌があれば、優れたエディーターシップを発揮しておおやけの問題として浮上させられるだろう、と諦めの感があったので、掲示板上でぶち上げられたことに驚きと敬意を感じました。いや、俳句を引いて、きっかけとされているので、明さんの呟きに終らせよう、後を引くと面倒になるとの思いがあるのか――と感じもするのですが。
少し「思いを書く」の背景を箇条書きにして、自分が抱いている伝統についてのメモを増やしたいと思います。同時に、明さんや畑美樹さんやぼくが、二年前の『バックストロークinきょうと』で「悪意」を、今年五月の『バックストロークin東京』で「軽薄」をテーマに据えようとしたことの意図にも関連するからであり、強いて言えばいま刊行中の《セレクション柳人》の句集のシリーズと、その黒子の位地で熱意を注いでいる樋口由紀子さんの努力にも関係しており、小池正博さんのいう「日常がことばの世界に変容する」との言葉にも密着していることなので――。
T いま川柳を書いている人達の多くは初心の時に「思いを書きなさい」という方向性で教えられて現在に至っているでしょう。我々の前や、前の前の世代の川柳が、情の授受をもって充分に感動を共有できた時代にあったということが、指導層の「思いを書く」の動因になっていたようです。
U 現代川柳(いつからを川柳の「現代」というかの論議もまったく無いのですが、ここでは省略して)が、情と情の交換と共感を過去のものとしてなお、「思いを書く」は、拠って立つところとして際立つ、あるいはこれしかないという感じだったようです。ぼくなども初心の方々に言うことがあります。けっして間違っていることとは思えないし、川柳の世界のまつりごとの方から見ると、常に員数拡大や員数確保を考え、員数減に顔を青くする結社やいわゆる教室の指導者には「思いを書く」は、一種の護符かも、と思います。
V ここで多くの結社誌の編集者連中を批判しておきましょう。
・ 「思いを書く」の川柳誌の編集者には三つのタイプがあります。1)員数こそ結社の生命型 2)日常の「思いを書」いておればそのリアリティーが感動をもっているので、員数確保にもなるだろう型 3)広義の意味で、うがち・省略・感性の発揮などの、発想と表現の手法を選句などで競わせつつ、感動よりも刺激を重宝する型。これはいろんな部門を設けて月次や年次(同じ意味で沢山の催し)の賞を多発、褒め上げて賞揚せねばなりません。
・ 1は無視します。2の編集者にはいろいろありますが、もっともひどいのは「思いを書く」ことを綴り方や日記の類と思っている連中です。当然、人生のおりふしの喜怒哀楽の共感性を前面に押し出します。おなじタイプには、いかに生きるかというポーズを尊重する方向もあって、数十年、いかに生きるかのポーズを、考える人のごとくカッコしているのを喜ぶのがあります。
両方共にフィクションについては冷淡。なにしろ生活の表面描写のリアリティーにしがみ付いているところへ、架空の言辞は入らせない(理解することを拒否)。認めると編集者自身の姿勢や規範が揺るがされる。3は2の逆で、作者が痛くも痒くもないけれど川柳的おもしろみの伝播に結社と編集者の命脈がかかっている。
・3は、意外なことに作者の個性を認めます。その多くが臭いエンターティメント的個性、時代の表層でウケるところで充分、という姿勢です。多くはポップでキッチュで―――。もちろんエンターティメント性を越えると結社の規範と編集者の沽券を侵す。
W TUVの粗い括りの中に、川柳性無視と現代川柳を雑俳性へ先祖返りさせる両極があります。「なんでもあり」「よいものはよい」との言辞は、むりにも前向きに認めたいけれど、根本的に個々人が川柳と名乗るところに関わっていることを自己否定しかねない。
X 言語への関心は数人のみが持っている。
Y 形式についての思考はほとんど見えない。
Z 「思いを書く」ということの革新史の無視。
[ こんな中で「思いを書く」志向から意味を考え、「思い」より「意味を書く」ことがどれほど作者と川柳の間口を広げ、ダイナミズムをもたらせることか、を「思う」人は少ないですね。「思いを書きなさい」から「意味性」へ、囲いを越えた数人(もっと多いかな?、時を遡ればかなり有りそう)の川柳人の、現代川柳に対するこころいき。
などの認識があります。
きょうはこのへんで、回を改めていま少し書きます。柊馬

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