1965(昭和40)年「川柳平安」4月号
並んで歩いてくる活字に謀殺され 堀 豊次
麻雀の音の匂いよ遠い祖国
四角の部屋できのうから活字を捜す
一すじの煙脳裡にベトナムを描く
妙庵にて
それは妙の字のつく寺に得たる石仏の頭 所ゆきら
塀に植えたる大小の石は三十三躰
足もとの灯に柳と一匹の泥鰌かな
釈迦堂修理の板片は青い壷の座
炉をきり句を作り庵主作庭を語る
売るものがないそろばんを風ぬける 北川絢一朗
烙印は下受け底なし沼だった
凶器ともなる活字がさらのままならぶ
使わない矛をたからに妥協する
石ぬれて花に勝とうとする媚か
新撰苑上位
暖冬の夜に放棄せり馭者の鞭 坪井枯川
柩見る近親感をどうするか
東京を幌馬車がゆく静視せよ
嚙み煙草より毒舌は堪え易き 寺尾俊平
わが書架に書はなく優雅なる肥満
入試おわり校長檻の戸をしめる 木下風太郎
忘却を神のブタ箱だと信じ
バラバラの自我にセメダインがにげる 泉本玲子
あそびすぎて土に帰れぬ乾いたみみず
萎えたリズムで青春を飾ろうとする 山本ひよこ
人生のカッコをつけたままでいる
にぎりつぶしたおんなのその掌をなぜ開く 徳永 操
うまず女のそのはだにきくそのいかり
さらさらと放浪の劔を研いでいる 白神英子
満つる日はなく流砂の紋をつむ
禁制を犯しつきょうの鉱脈を掘る 鶴本むねお
美しい夢だよ失せろ哺乳瓶
「柩見る近親感をどうするか」の「近親感」、疑問があるものの句意からすれば、これよりないとも感じられる。いまになって選者がなにを思ったか、立ち止らなかったか、と思うのだが奇異の感はいまであり、読者の私は当時、何も感じなかったようだ。
一句組に
逃げるときゼニの臭いは消しておく 川村富造
突然の讃美歌悪人はオレではない 細川 静
新聞の首相の顔へパン包む 田中博造
抒情なき神話はきょうも創られる 千葉和男
墓穴より溢れ優雅な私語の列 中村土竜
たれ絹の修辞に深淵の無味黙す 高木祐治
がたごとと義肢が迷う回廊は永遠 矢田冗児
トロッコに泪色の石炭いっぱい 大杉富佐尾
オトコとオンナがいて駅裏にホテルがあり 長町一吠
十字架が建つベトナムの双六さ 木本生風
つぶれたシーソーにひとりの老婆の回顧 奧西しげ
あたためる夢空間に亀裂する 堀内紅葉
句会吟
原則として一本の旗である 豊次
友だちの荒れたくらしを見て帰る 同
サーカスの少女に海の荒れる日も 同
犬に仏性があるというないという ゆきら
飛鳥の砂掃いているのか唐招提寺は朝 白史
凡夫あちら向く女の顔を夢に ゆきら
風呂屋から凡夫満足してかえる 礫
卵もセロハンじゃがいももセロハンの春 百日亭
卵変わらず少年の昔より 豊次
石階を芭蕉もききし沓の音 ゆきら
自由席
坪井枯川(岡山市) 私がいる病棟も一時は7・8人の川柳同好者がおり、作句をたのしんでいましたが、一人の全治退院者があっただけで、私を除く全部が亡くなりました。もともと一人になっても川柳はつづけてゆく決意ですが、このように烈しい人生の明暗を見ると、そのただ中にいる自分の杖を、いま一度たしかめねばならぬと思います。しかし私には川柳があるからなかなか要心深くしぶといです。<社あて>
前号あたりから、新撰苑の作者と選者に張り詰めた緊張の生じていることが感じられたが、これも今から見れば、であり、当時は、初心かつチンピラの居ずまいを正させるような盛り上がりの感にとどまって、作者と選者の、いわば仰ぎ見るバトルの感を抱いたのはもっと先のことだった。
豊次と坪井枯川の熱気は上に引いた枯川からの私信で感じられるが、この号では泉本玲子、寺尾俊平の入選句に、対豊次へのエネルギーの傾注がはじまっている。すでに定金冬二は上位入選の常連であり、川柳界の一般的な見方からすれば新撰苑が革新系の選句欄と感じられていたところから、上位入選の句、特に冬二の句によって、社会性にのみ重きを置くものとの偏見が矯正されてゆく中であった。この上に立って、冬二ともども投句者個々の上昇が展開される選句欄となってゆくのだが、この号にはその方向性と定着感が見え始めている。
このことは川柳界のなかで新撰苑の存在が強まったということでもあり、幾つかの川柳誌の同様の投句欄が<第三雑詠>と呼ばれる方向性を胚胎し始めた時期であった。
同時に、上記の一句組の若い投句者の句が号を追って、川柳界から見れば新奇な表現を発揮、豊次がこれを認めていると見えたはずである。
豊次は庶民生活の中のハイカラやモダン、ファッションなどといわれる感覚と川柳との関係に興味を持っていた。感性の解放と川柳的な詩の可能性を重ねていたのだろう、既成川柳に刺激をもたらせるとの公算があったようである。これがわれわれ若輩には頼もしく感じられ、かつ、川柳界の旧弊をかなり露骨に嫌がる素振りをするチンピラ連の防波堤になった。
例えば「抒情なき神話」「修辞に深淵の無味黙す」「泪色の石炭」「ベトナムの双六」「つぶれたシーソー」「夢空間に亀裂」などの句語は意識的に角張った句語を用いている感が濃い。そしてこれらの句語の斡旋に革新派に擦り寄る自己硬直性の感もあるのだが、このような自己顕示の感じられる書き方を豊次が入選にするところに、豊次の見ている川柳界への批判、無感動な句の羅列へのいわばゲリラ的な思惑が感じられる。安直だが、オリンピックをやってのける国の、庶民生活でのモダニスム化はファッション性による表現に極端に現われるものであった。極言すれば〔社会性〕という言葉は、川柳という手近な表現の場ではモダンな感じを帯びていたのである。なぜなら、当時の社会には前近代的な社会規範とそれを脱する革新指向がぶつかっていたのである。新奇の感には現状惑乱の感が混ざっていたのである。そして、新撰苑の上位入選には地に足の着いた冬二や俊平の措辞があり、そこに選者のバランス意識がはっきり出ていたのである。
前号の豊次が、厳選であることとスペースの拡張について触れていることと合わせて、新撰苑は充実期へ向かい始めていた。
やがて岩村憲治の投句が一回毎に前進、変貌してゆく時期を得て、新撰苑は稀に見るダイナミックな選句欄となるのである。
4月号の「川柳平安」は97号であった。舞台裏では100号記念の大きな特集「昭和出生作家百撰」に向かって編集陣の無償の活動がたけなわであった。そして特集は、平安川柳社にとっても新撰苑にとっても、さらに、結社内にも結社外にも、「川柳平安」誌の充実期を顕現してゆくのである。
しかし、新撰苑を取り囲むこの状態を、豊次がどのように見ていたかはわからないが、社会的な変貌と川柳との関係が新撰苑を後押ししていたと言っていいだろう。
むろん川柳の質的上昇は豊次の望むことであった。現代川柳という言葉を意識的に用いて、川柳の世界で言う革新という用語と、世の中で用いられている革新の趣との重さなる状況に新撰苑があるとの認識があっただろう。われわれ初心者の眼にも、川柳の伝統性の上昇より、伝承に努めている川柳界の現実は露骨に見えていた。一党一派に偏しないというテーゼをもって動いている平安川柳社の諸々の活動は、結社内の和を持って尊しとする楽観によって成っていたが、堀豊次はかなり醒めた視線を持っていたはずである。本当に一党一派に偏しない活動というものが可能であるのか。不可能ではないか。結社について、新撰苑の川柳について、何か違うと意識を豊次は持っていただろう。時代の潮流だけを川柳の変貌の原因と見るのではなく、豊次自身の川柳観や文学性について、漠然とした穴のようなものを感じていたのではないか。
堀豊次の川柳観は、〈川柳という文芸は、一般庶民のものである〉ということであった。日常性のなかの共感をよしとしつつ、その質の向上に関わる活動に、無償かつ献身的であった。川柳の質が庶民のエスプリの質やヒューマニティーの質を現すという視線があったのである。そこから見て、平安川柳社は川柳界で一党一派に偏しないと標榜、一応川柳界で確たる位置を得ており、さらに、100号以降にもその位置を保つ活動をせねばならない。これが豊次の望んでいる方向であったか?
オリンピックを終えた翌年の、国中が経済上昇に遮二無二走っているなかで、自分の居る結社も、一般庶民とともに時流に乗って走っている。豊次は、自身の川柳観がその後の展望を描いていないことに気付いていたはずである。
新撰苑はどのような方向に向かったか。
いまから見れば、新撰苑はこのあと佳境を迎えた。堀豊次は、時代の潮流にありながら、懸命に、新撰苑をよき川柳の模索の場としていった。投句者の多彩化はエピゴーネンを入れて毎月の投句に展開された。とにかく個々の作者の傾向と選者という関係、その作者と、豊次が志向する川柳を模索したはずである。定金冬二、坪井枯川、泉本玲子・寺尾俊平などの上位の常連が定まるまで、個々の作者に沿って対応がなされた。おそらくリアリズムを基調に各作者の精神的なリアリティーを見ただろう。新撰苑のスペースが倍増するのはまだまだ先のことであった。没句が増えること、その痛みは、結果的ではあるが豊次を支えるものになっていったと思われる。
やがてスペースが倍になって、賑やかな新撰苑,の時節がおとずれたとき、ファッション性は新奇でも何でもなくなって、既成川柳へのゲリラ的意味を持たなくなっていたのである。僅か十年ほどのあいだに、社会状況も川柳も、そして新撰苑も、無気力化傾向に変容して行ったのである。

4