近藤前理事長のこと  

本日は予算編成会議で、
三役8名が集まって審議しました。
1月末から2月末にかけて5つの部会で立案した内容の集大成。
今年度は50周年記念事業のオンパレードでしたが、
新年度は通常年に戻っての落ち着いた年となりそうです。

生衛組合は大きな変化があります。
今まで生衛組合を支えていた団体保険の手数料が
収入どころか持ち出しとなり、
組合の助成事業として保険を運営するという
大変革が行われました。
その結果、加入促進関係の事業をせず、
周知徹底と円滑な集金で
組合員であるメリットを感じていただく事業となります。

組合員であるメリットといえば、
年度末豚肉供給がキロ290円という破格の値段で、
今日の段階で1350箱。
1組合員1箱の制限付きですから、
1440名の組合員の94パーセントが参加。
今は豚が高値なので、
助成額は2千万円くらいになり、
50周年最後を飾る事業となりました。

近藤前理事長の訃報が速報業界誌に載りましたので、
あちこちから問い合わせがあり、
香典を持って行ってほしいとの依頼もありました。
現職ではありませんので、
広く通知はしませんでしたが、
ありがたいことです。

近藤金治前理事長については、
5年前の理事長時代、
「東京食肉新報」に掲載された記事があるので、
それを再録します。(読みやすく改行してあります)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

近藤理事長は大正12年、新潟県の長岡市で生まれた。
家は半農の家畜商。
ルーツはまさに深く食肉業界に根ざしている。

20歳の時、徴兵により満州の陸軍教導学校へ。
昭和19年という日本軍の敗色濃い中での渡満。
その後に過酷な運命が待っているとは思ってもいなかった。

 シベリア抑留の体験

翌年下士官として部隊に配属。
牡丹江で終戦を迎えた。
その直後日ソ不可侵条約を破って、ソ連軍が侵攻、捕虜となった。
「この時は、もう生きて日本に帰れるとは思わなかった」
暮れの30日に凍った黒龍江を徒歩で渡り、
貨物列車で運ばれたところはバイカル湖南のラウンノディ。
先行きの見えない旅だったが不安がなかったのは、
戦友と一緒だったからである。
収容所には2千名の日本兵がおり、
食べ物は殻のついたままの雑穀で、
食べるとおこしのような便が出た。
日本の食べ物がなつかしく、その話題に時を忘れることもあった。
炭鉱での労働、伐採、石切り、山を切り崩しての鉄道作り。
寒さと凍傷、飢えとの闘いだった。

 帰国と高度成長

シベリアには足掛け3年いた。
再び汽車で運ばれハバロフスクから出航した時には
樺太で働かされると聞かされており、
陸地が近づいて来た時にも、みんなそう思い込んでいたが、
船が終始南を指していたことと若狭湾を見たことがあったことから、
理事長は「いや、違う、ここは日本だ」と叫び、
その途端、歓呼の声が船にあふれたという。
昭和22年11月25日のことである。

故郷に帰って姉夫婦がしていたガラス工場に勤め、
結婚、1男1女をもうけた。
転勤で東京に出たものの、
プラスチックの台頭でガラス産業が凋落、
日暮里にある食肉販売店で営業マンをした後、独立。
昭和41年、田無の今の場所で新規開店
した。
この時理事長43歳。
高度成長の真っ只中で、店を開ければお客が来た好況の時代である。
しかも隣接してひばりが丘団地が出来たのが幸運だった。
当時最先端だった団地も今は古くなり、高層化の立替えの真っ最中だ。
このように、理事長の歩んだ道は戦後日本人が歩んだ現代史そのまま、
いわば生き証人である。

 荒波での理事長就任

加入した組合の当時の田無支部は、
今の東久留米、小平、東村山、保谷の各支部を包括した
2百数十人の大支部であった。
組合の役員には昭和53年になり、
57年には常務理事として事業部長などを歴任、
平成4年専務理事を経て8年には副理事長に。
12年秋天井前理事長が亡くなった時には、年長の先輩もおり、
「まさか自分が指名されるとは思わなかった」
というのが実感だった。

理事長就任後は大変な波風をかぶることになる。
千代田生命が破綻して年金加入組合員に被害が及びその対応に忙殺された。
被害者からの抗議も激しかった。
最終的に、
カットされた10%の3分の1を「見舞金」として支給することになったが、
生衛組合資産の5分の1を支出する大英断である。
それも後で「少しでも戻ったのは組合のおかげだ」との
感謝の言葉に報われた思いがした。

その翌年には業界で百年に一度の大事件が起こる。
BSEである。
組合員店舗での牛肉売上が5分の1にまで低下する中、
農水省の施策は買い上げ制度など卸業者には及んでも
小売店までは届いて来ない。
誰も助けないなら、自ずからやろう、ということで、
全組合員に対して10万円ずつ総額2億円を
「災害見舞金」として提供
するという決断は世間を驚かせ、
マスコミに報道された。
その時、
「東京だけそんなことをしてくれては困る」
などという雑音には耳を貸さず、
果敢に実施した。
輸入牛肉の枠があった時代の利益を山分けせずに貯めておいたものだ、
誰にはばかることはない、
組合員が苦しむ今こそ使う時だという信念があったからだ。
この時も後で寄せられた
「組合に入っていてよかった」という喜びの声が支えとなった。

これ以外にも、現状に合った理事数の減員
赤字体質改善に向けての外国債券による資金運用
新陳代謝のための本部役員の年齢基準の導入など、
それまで手につかなかった改革を次々になしとげた実行力は
高く評価されている。
「別に私がしたわけではなく、みんなが知恵を出し合った結果だよ」
と本人は言うが、
「この人のためには力を貸したい」
と思わせるものが理事長の中にあることは確かで、
提案を受け入れ実行する懐の深さと、
トップとしての決断力
がなければこのようなことは前に進まないものである。
「次の人が新しい発想で組合運営をしていくために、
できれば自分の時に、問題点を整理しておきたいと思った」
という考えが決断を進めたのだろう。

 組合事業への参加を

後継者不足は組合員共通の悩みだが、
理事長の家では息子の正之さん(50)が
食肉学校を卒業して店を引き継いでくれたので、
組合活動に専念できる。
「組合に出掛けて行く時の親父は、なんとなく嬉しそうだ」
というのが正之さんの弁である。

現在、全肉生連や全肉連等全国団体の副会長の要職も務めているが、
物静かでありながらいざという時は主張する人として一目置かれている。
理事長として組合員に望むことを聞いた。
「組合の事業を活用してほしい。
食肉共同購入事業に積極的に参加してもらいたいし、
組合の団体保険の加入は必須。
会社で言えば株主になった気持ちで、
自分の組合であるという愛着を持つことが必要
だと思う」
そして、こうも願っている。
「どんなに時代が進み世界が変わっても、
肉屋がなくなることはあり得ない。
商店街で愛される店となるために、
今は何より安全・安心・正直をモットーとした商売を続けてほしい」

〔平成15年4月15日号「東京食肉新報」掲載〕

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

千代田生命の破綻という荒波の中で理事長を引き受け、
BSEという「百年の一度の災厄」を乗り越え、
仕組債の導入で組合財政を建て直して
7年続いた赤字を解消。
仕組債の提案に対して、
無責任な指導者なら、
先送りにするところを、
「もし問題が起こったら、
私が責任を取ればいいんだから、
やってみなさい」

と言った一言が
赤字を解消し、
今の潤沢な資金を持つ組合への道筋ができたのです。

その他にも、役員数の削減、定年制の導入、支部統合の指針の制定
など、
普通は手を付けない改革に着手。
この時の改革があったので、
今の組合がある
ということを実感します。
この種まきがあったからこそ、
次の近藤一夫現理事長の時代に
組合内助成事業という形で
花開き、実をつけたのです。

まさに、
時代の変化を感じて、
組合みずから変わらなければならないことを実行した指導者
でした。
近藤前理事長の功績は末代まで語り継がれていくことでしょう。




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