紀行文『深夜特急・第三便 飛光よ、飛光よ』  書籍関係

[書籍紹介]

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飛光よ、飛光よ
とは、唐代の詩人、李賀が詠んだ詩、

飛光よ、飛光よ
汝に一杯の酒をすすめん

から来ている。

沢木耕太郎による紀行小説シリーズ第3弾(最終章)。

イランを出てトルコに入る。
黒海を眺めるために北上し、
南下してアンカラに。
そこで会うべき人がいた。
テヘランで磯崎夫妻に会った時、
奥様からアンカラの女性画家に、
亡くなった恩師の回顧展のパンフレットを
届けてくれるように依頼されたのだ。
奥様の姉妹弟子であると共に、
恩師の愛人でもあった人物だ。
その人物に会って数日食事を共にし、
大任を終えた気になる。

ボスポラス海峡をフェリーで渡って、
ヨーロッパに入る。
ブルー・モスクの見えるホテルを取り、
アヤソフィアなど観光名所を巡る。
それまでは入場料の必要なところは回避していたのだが、
せいぜい5、6リラ(100〜120円)のこと、
夜の食事の皿を一つ少なくすれば済むことだ、
と考え直して、名所に入ることにしたのだ。
しかし、たいした感銘を受けない。

やはり私には街が面白かった。
街での人間の営みが面白かった。


と書くとおり。

ヨーロッパに入ってから安心感が広がったのがよく分かる。
私も昔エジプトからトルコに入った時、
文明国に入ったような気がしたものだった。
まず、文字が読める。
エシプトのミミズがのたくったような文字ではなく、
アルファベットだからだ。
そして、信号がある!

ギリシャ
夜着いてホテルに泊まり、
朝が来て、表に出た途端、思わず声をあげそうになる。

昨日までと世界が一変していたからだ。
着いた時は深夜だったためわからなかったが、
ホテルの前は広い通りで、
そこには朝日に照らされて
石造りの端正なたたずまいのビルディングが立ち並んでいた。
テサロニキは都会だった。
それも正真正銘のヨーロッパの都会だった。
その感を深めたのは、
大通りの歩道に、
コートを着て急ぎ足で会社に向かう人の流れがあったことだった。
これまで私が通過してきた都市では
ほとんどこうした通勤の人の流れを観ることがなかった。


こうして、東南アジアから中央アジア、回教圏を通過して、
ヨーロッパに到着したことを実感する。

そのことを茶の言葉で実感するのも面白い。
茶を「チャイ」など「C」で表現する国から
「ティ」と「T」で表現する国になったのだ。

私はトルコからギリシャに入ることで、
アジアからヨーロッパへ、
イスラム教圏からキリスト教圏へ、
茶の国からコーヒーの国へ、
「C」の茶の国から「T」の茶の国へと、
違う種類の国へ来てしまっていたのだ。


そのあと、ペロポネソス半島を経て旅は続くが、
その時、次のような感想を抱く。

旅がもう本当に人生に似ているものなら、
旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。
人の一生に幼年期があり、少年期があり、
青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、
長い旅にも
それに似た移り変わりがあるのかもしれない。
私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。
何を経験しても新鮮で、
どんな些細なことでも心を震わせていた時期は
既に終っていたのだ。


実際、筆者の旅行記は、
この第三便になって、やや精彩を欠く。
それが旅の人生の時期によるものかもしれないが、
もしかしたら、香港やインドと相性が良く、
ヨーロッパとは相性が良くなかったのか分からない。

私自身の経験でも、
定年を迎え、ほぼ月1の頻度で旅行した時に警戒したのは、
「感動のインフレ」ということだった。
贅沢な悩みだが、
旅行を重ねれば重ねるほど、
そういう傾向に陥ることを警戒したのだ。

ペロポネソス半島から船でイタリアへ。
その船の上で、
次のように感じるのも旅行に倦んできたからかもしれない。

この船のうえで僕が感じていたものは、
安らかさではなく、
不思議なことに深い喪失感だったのです。
体が空っぽになってしまったような虚しさが僕をとらえていました。


そして、こうも書く。

長い道程の果てに、
オアシスのように現れてくる砂漠の中の町で、
ふと出会う僕と同じような旅を続けている若者たちは、
例外なく体中に濃い疲労を滲ませていました。
長く異郷の地にあることによって、
知らないうちに体の奥深いところに
疲労が蓄積されてしまうのです。
疲労は好奇心を磨耗させ、
外界にたいして無関心にさせてしまいます。
旅の目的すら失い、
ただ町から町へ移動することだけが
唯一の目的となってしまいます。


イタリアに入って、驚くべき経験をする。
ローマに行くバスを探すと、
「ローマに行くバスなんかない」という答が返ってくる。
列車で行け、という。
長距離バスというものが存在しないのだ。
少しでも近い町に行って、
次のバスに乗り継ぐ形で、ちょっとずつ近づくしかないのだ。
乗合の生活バス路線。
逆に沢山の市民たちと一緒で、
様々な出会いのあるバス旅行となった。
中には極真カラテの大山倍達を知っている子供にさえ会う。

ローマで筆者はある芸術作品に出会う。

城、館、寺院、博物館、遺跡、廃墟。
シルクロードで必見とされるどんな場所も、
僕には無縁のものでした。
何ひとつ見なかったというのではありません。
見たり見なかったり。
そこに寄るかどうかは、金のかかり具合と、
その時の気分しだいだったのです。
どうしても見たいと願ったものではなかったから、
見たものですらその翌日には
ほとんど忘れてしまうという有り様でした。


と書いて、この人、文化音痴ではないかとさえ思っていたが、
サンピエトロ寺院でミケランジェロのピエタを見た時は、
魂を奪われるのだ。

<こんなものがこの世に存在していいのだろうか・・・>
私は胸の裡で呟いた。
この世の中に天才などというものがいるとは信じたくはないが、
この「ピエタ」を作った人物にだけは
その呼称を許さざるをえない、と思った。


紀行文を通じて、文化、芸術には
あまり感受性がないと思わざるをえないにもかかわらず、
この「ピエタ」がそれを突き破る。
やはりミケランジェロを素晴らしい。

ローマでは、あの恩師の奥様に会い、
フィレンツェを通過し、
モナコではマカオのカジノでの記憶から、
カジノで一儲け、
と思いつつ、ジャケットを着ていないばかりに、
カジノにさえ入場を許されない、という笑い話もつく。

スペインでは、バルセロナとバレンシアとマドリードに。
当然、サグラダ・ファミリアにもプラド美術館にも行かない。

ポルトガルに入り、リスボンから、
イベリア半島の突端ザグレスまで行ってみる。
ザグレスでは、ポルトガル語で茶を「CHA」と言うのだと知って愕然とする。
また「C」の国に戻ったのだ。

そして、パリを経て、ロンドンへ。
ロンドンの中央郵便局から「ワレ到着セリ」という電報を東京に打とうとして、
「君はここから電報は打てない」と言われてしまう。
電報は郵便局からではなく、電話局から打つのだという。
しかも、電話でも受け付けると言われて愕然とする。

というわけで、
香港、マレー半島を皮切りに、
デリーからロンドンまでの長距離の旅。
猿岩石があの無銭旅行をする
はるか前のことである。

1年にも及ぶ長い旅行記を読んで思うことは、
私とは真反対の旅行のしかただということ。
私なら綿密な計画を立て、飛行機を手配し、
ホテルを予約し、必要なチケットを得るようにしてから出かける。
貴重な異国での時間を失いたくないからだ。
しかし、筆者のスタイルは「行けば、どうにかなる」というもの。
それはそれで楽しいのだろうが、
安いホテルを探して、重い荷物を持ってうろつく、
その時間がもったいない。
そして、値切りの交渉。
実際は日本円にして10円や20円の値切り交渉なのだ。
そんなことをして、得をしても、
自分の精神が損をしてしまう、と思う。

まあ、旅行のスタイルの違いだが、
若いから出来る旅行でもある。
恥ずかしいことを沢山出来るからだ。

ただ、筆者は幸運に恵まれたのだ。
劣悪な食事だったにもかかわらず、
病気は一度だけ。
盗難にも合わず、
事故にも巻き込まれず、
人に沢山助けられた。
たとえば、パリでは初対面の人から
二重に借りているアパートを
一日わずか5フラン(300円)で借りることが出来た。
篠崎夫人に頼まれて面会した恩師の関係者からも親切にされる。
その他、バルで見知らぬ人から沢山のオゴリを受ける。
それはおそらく、筆者の持っている人徳と運によるものだろうと思う。

この本はバックパッカーのバイブルになっているという。
しかし、真似は危険だ。
世界にはあらゆるところに危険が口を開けて待っているのだから。

旅する者として、
貴重な体験談に満ちた、
面白い読物だった。




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