評論集『新聞という病』  書籍関係

[書籍紹介]

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門田隆将によるメディア論。
産経新聞連載のコラム「新聞に喝!」と
月刊「正論」に書かれた内容をまとめたもの。

新聞に対する批判の重点は、次のとおり。

○新聞記者が「偉くなってしまった」
 物理的に偉くなったのではなく、彼らの「意識として」。
 いつのまにか、
 天下国家をあたかも自分がまわしているような錯覚に陥った。
○新聞が事実の報道ではなく、
 自己の主義・主張、すなわちイデオロギーに固執し、
 事実そっちのけで紙面がそのことを
 「訴える場」であるかのように錯覚してしまった。
○まるで反日運動や反原発運動の機関紙と化したような
 紙面作りをしている。
 「新聞は運動体ではない」。
○自己の主張に都合のいい一方の情報だけを伝えて、
 都合の悪い情報は決して報じない日本の新聞。
 もはや、そんなものは「新聞」とは呼ばない。
○ネットの発達によって、新聞だけが伝達の媒体ではなくなった。
 その結果、新聞がいくら一方的な情報で
 読者を誘導しようとしても、
 もはや誰も欺かれはしない。
○国民にとって、新聞は、
 もはや必要不可欠な存在ではなくなった。

憲法議論や安全保障でも、
もはや「左右の対立」ではなく、
「空想家、夢想家(dreamer)」と
「現実主義者(realist)」との対立、
つまり「DR戦争」とも言うべき時代が来ている。
というめざましい指摘もある。
そして、こう書く。

「現実」を見据えている若者と、
主義主張にこだわるだけの新聞との乖離は、広がるばかりだ。


邦人救出問題においても、
「海外での武力行使に繋がる」
「それは憲法違反になる」
という主張に対して、こう述べる。

あくまで何をおいても大切なのは「憲法」なのだ。
「命」よりも「権利」が優先する本末転倒した理論は、
戦後ジャーナリズムの極めて特徴的な傾向であり、
同時に頸木(くびき)」でもある。


新約聖書のルカによる福音書に、
安息日に対する、キリストの言葉がある。
「ここにいるあなた方のうちで、
自分の息子や牛が井戸に落ちたときに、
安息日だからといって引き上げるのをためらう者がいるだろうか?」
安息日とは、ユダヤ教にとって、何もしてはいけない日である。
そのことについて、キリストは
「命と安息日とどちらが大切か」と迫ったのだ。
そして、キリストは、
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、
あなたがたは、わざわさである」

と非難するのである。

熊本地震の時のオスプレイの派遣についての
イデオロギー論争も同じ。

こんな時でも、
新聞にとって一番大切なのは、
「自分たちの主張なのか」と
読者もあきれているだろう。


慰安婦問題に対する吉田捏造証言の誤報、
原発の吉田調書の誤報などについて、
次のように書く。

そこには、どんなことをしてでも、
「日本」そのものを糾弾し、貶めたい、
という朝日新聞の意図が見え隠れしている。


熱心に今も朝日新聞を講読している読者以外には、
根本的な疑問があるに違いない。
それは、
「あなたたちは、
 なぜ事実をねじ曲げてまで、
 日本を貶めたいのですか」
ということだ。
「どうして、朝日新聞はそこまで
 中国や韓国の味方をしたいのですか」
「なぜ、そこまで両国の敵意を煽って
 日本との関係を破壊しようとするのですか」
「朝日の報道によって、
 日中関係はよくなったのですか。
 そして、日韓関係はよくなったのですか」
これらは、朝日の読者以外の
日本国民の素朴な疑問だろう。


結果、
著者は次のような疑問を提示している。

朝日新聞が日本人を貶める目的は一体、何だろうか。
私には、それがどうしてもわからないのである。


これについては、
私は「DNAがそうさせている」
という見解を持っている。
日本人ではないDNA、
反日のDNAを持っているから、
としなければ、
もはや理解は不能なのだ。

「新聞の病」というより、
「朝日、毎日の病」という内容だが、
端的に次のように書く。

朝日新聞の編集方針には、
ファクトが先にあるのではなく、
自分が言いたい「主張」や「イデオロギー」が先にある。


そして、最後に、こう言い放つ。

自己陶酔した記者やジャーナリストたちは、本当にタチが悪い。
勘違いしているだけでなく、
自分に酔っているのだから、
まわりの人間が指摘しても、
耳を貸すはずもなく、
同じ価値観を共有する仲間たちと共に、
「徒党を組む」だけだった。

自分たちが既に「新聞記者」ではく、
「活動家」となり果てていることを認識すべきだ。





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