映画のハシゴと『人間にとって成熟とは何か』  書籍関係

今日は朝から新宿六本木に出かけ、
映画のハシゴです。

新宿はここ、シネマート新宿

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建物は違いますが、ここは昔、新宿文化のあったところ。
新宿文化は、映画の上映後、
アングラ芝居を上演していたことがありました。
私も清水邦夫・作、蜷川幸雄・演出
「泣かないのか泣かないのか、1973年のために」
なんかを、通路に座って観ましたね。

幕が落ちると、
舞台に銭湯が作られており、
そこで石橋蓮司と蟹江敬三が軽妙なやり取り。
そこに血まみれの演劇集団がなだれこんで来て、
それまでの清水・蜷川作品の総括をし、
これで二人の櫻社は解散。
石橋と蟹江二人で踊るタンゴに
劇団員が次々と斬りつけ、
最後は湯船を舟に見立てて、
闇の中に出航していく。
強烈な印象で数日間、その感覚がまつわりつきました。

1970年代の思い出です。

裏の末広亭をちょっと覗き、

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六本木ヒルズへ。

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上空には飛行船。

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何を観たかは、映画紹介でのお楽しみ。

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〔書籍紹介〕

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賢人・曽野綾子さんが
幻冬舎のPR誌「星星峡」(せいせいきょう 近く廃刊)に連載した
「成熟した大人、未成熟の大人」を
改題の上、一冊にまとめたもの。
うまい、良い題名を付けたものだ。

私が「賢人」と常に頭に書くように、
曽野綾子さんの書くものは、
人智の知性の到達し得る箴言(しんげん)に満ちている。

たとえば、東日本大震災以来、
人々が口にする「絆」について、
次のような辛口を述べる。

東日本大震災から満一年を迎えるに当たって、
果たして日本人は、
立派にこの災難を迎えたのだろうか、
という失望の空気が流れ始めた。
その端的な表れは、
被災地の膨大な瓦礫を引き受けることを拒んだ
多くの地方自治体があったことだろう。

もし絆が大切だと言うなら、
その心の証は
さしあたり瓦礫を引き受けることだろう。
それさえ利己的に嫌なら、
自分は人に優しいとか、
人道主義者だとか言わないことだ。
自分は、自分の命だけがかわいくて、
自分の不利益になることは一切いたしません、
と明言すれば、
まだしも人間として一貫している。

絆とは与えられることでもあるが、
与える覚悟でもあるからだ。
相手のために時間を割き、
金を出し、労働し、不便を忍び、
痛みを分かち、損をすることなのである。
もっともその代わり、
たいていの人がそれによって大きな精神的な幸福を与えてもらうこともほんとうだ。

震災を利用するような催しも
私は失礼だと思う。
先日も自分の作曲した曲を披露する音楽会に
「被災者に捧げる」という言葉をつけていた人がいたが、
別に特に捧げると書かなくてもいいことだろう。
今回のいい曲はどうして生まれたのですか、
と後になって聞かれたら、
「地震がきっかけでした」
と答えればいいことだと思う。


政治家に対しても容赦ない。
野田聖子議員が人工受精の結果、
子供を得、
その子が幾つもの障害を持って生まれて来て、
数々の治療を受けてきたことのインタビューで、
「息子の治療費は、医療制度に支えられています。
高額医療は国が助けてくれるので、
みなさんも、もしものときは安心して下さい」
と述べたことについて、噛みつく。

この野田氏の言葉は、
重要な点に全く触れていない。
それは、自分の息子が、
こんな高額医療を、
国民の負担において受けさせてもらっていることに対する、
一抹の申し訳なさ、か、
感謝が全くない点である。

私だったら
「皆さんがお支払いになった健康保険料を
たくさん使わせていただいて、
ほんとうにどんなに申し訳なく、
感謝としいるかわかりません。
この子が大きくなったら、
何らかの道で、
きっとご恩返しをするように、
よく話して行くつもりです」
と言うだろう。

野田氏のように
権利を使うことは当然という人ばかりが増えたから、
日本の経済は成り立たなくなったのだ。
使うのが当たり前、
権利だから当然、
という人が増えたら、
結果として日本社会、日本経済はどうなるのだろう、
という全体の見通しには欠けるのである。
ましてや
「野田真輝は野田総理よりはるかに国民に貢献していると、
母は誇りに思う」
などという言葉は、
野田氏が根本的に、
人間のあるべき謙虚な視点を失っていて、
人間を権利でしか見ない人だということを示している。
初の女性総理候補どころか、
この部分を読んで
野田氏の人間性に失望したという人が、
私の周囲には稀ではない。

ついでに言うが、
私も野田聖子氏の資質については、疑問を持っている。
あるテレビ討論を見て、
何の定見も見識もないことが明らかになって以来だ。
口当たりの良いことを
相手の様子を伺いながら言っているにすぎないこの人は、
総理の器ではない。
ついでに言うと、
やはり「総理候補」小池百合子氏も
実体の伴わない空疎な言葉という点で同じである。

日本語の使い方についても苦言を呈する。

日本で大学を出たインテリと言われる人たちが、
平気でこういう言葉を使うようになった理由は、
国会の先生と呼ばれている人たちが、
まず日本語をまちがって使うようになったからだと教えてくれる人がいた。
それに伴って
絶えず視線が政府だけ向いている中央の官僚や
その周辺の空気で生きている人たちは、
同じまちがいを受け継いだのだという。
哀しい話だ。

今巷にあふれている「〜させていただく」と言い回し。
あれを最初に使ったのは、
今や評判が地まで落ちた鳩山由紀夫であることを私は知っている。
また、議員先生の言葉遣いを聞くと、
「私は」ということばが
文法を無視して唐突に入る入り方。
あれば誰が始めたのだろうか。

「品」についても、このように書く。

品は、群れようとする心境を自分に許さない。

品を保つということは、
一人で人生を戦うことなのだろう。

品というものは、
多分に勉強によって身につく。
本を読み、
謙虚に他人の行動から学び、
感謝を忘れず、
利己的にならないことだ。
受けるだけでなく、
与えることは光栄だと考えていると、
それだけでその人には気品が感じられるようになるものである。
健康を志向し、美容に心がける。
たいていの人が、
その二点については比較的熱心にやっている。
しかし教養をつけ、
心を鍛える、
という内面の管理については
あまり熱しではない。
どうしてなのだろう、と
私は時々不思議に思っている。

病気について書いている部分も面白い。

もっと若い時、
私は初めて参加した女流文学者会という集まりで、
大先輩の宇野千代さんにお会いした。
女流作家という人たちは、
それぞれに個性的で、
他人におもねることもなく、
自由なことを言う人たちだと思ったが、
宇野さんについては
ことに印象的なことがある。
それは宇野さんが、
こういう皆で集まる席で、
病気の話をするのはやめにしましょう、
と動議を出されたことだった。

ほう、すごいね、宇野さん。

私に言わせれば、
個人にとって大切でも、
他人にとっては
全く興味のない話というものが世間にはあるのだ。
その筆頭が病気の話である。
その他に、
孫、ゴルフ、犬などのペットの話題もある。
それに気づかない女性(主に)の話題というものは、
ほんとうは人困らせなのだ。


随分前、牧師から聞いたことがある。
婦人会、壮年会などという会合をやめた、という話だ。
というのは、婦人会では病気と出産と子育ての話、
壮年会では同じく病気と戦争経験の話になり、
聖書の話など誰もしない、
ということに業を焼いた結果だという。

私も、「家族以外は聞きたくもない」話、
というのをいくつか上げることが出来る。
一つは子供や孫の自慢話。
一つは、いつどこで何を食べました、という話。
一つは、株や土地でこれだけ儲けましたという話。
もう一つは、旅行に行って楽しかった、という話。
う〜ん、このブログ、
4分の1は旅行の話で成り立っているので、
人のことは言えないなあ。

「威張る」ことについても辛辣だ。

私は昔から、
カトリックの信仰を基準にした教育を受けた。
神の前には、
人間世界の地位や財産など、
全く無意味なものだ、
という意識を徹底して育てる教育である。
私たちは、やや昔風な言い方だが、
「王様の前でも乞食の前でも、
等しく同じ態度で接する」
ことができるようにしつけられたのであった。

威張る人というのは、
一見、威張る理由を持っているように見える。
地位が上だとか、
年をとっているとか、
その道の専門家だとか、
それなりに理由はあるのだろう。
しかしほんとうに力のある人は決して威張らない。
地位は現世で仮のものだからである。
誰がほんとうに偉い人か、
その優劣の差があるかどうかは、
神仏が見極められることだ。

私は母から、
最低限、威張らないことで、
みっともない女性にならずにいる方法を習った。
威張るという行為は、
外界が語りかけて来るさまざまな本音を
シャットアウトする行為である。
しかし謙虚に、一人の人として誰とでも付き合うと、
誰もが私にとって貴重な知識を教えてくれる。
それが私を成熟した大人に導いてくれる。

中には、マイケル・ジャクソンに対する言及もある。
AKB48について書いたくだりだ。

現在のAKB48の歌も踊りも、素人に近い。
素人でもいいからAKB48になりたい
見たいという人もいるのはわかっているが、
そこにこそ不純な動機もある。
もっとも、踊りに関しては
私はマイケル・ジャクソンのファンなので、
あの人と比べると、
ダンサーと言える才能を持つ人は
世間にはほとんどいなくなる。
しかしAKB48のダンスを
孫のお遊戯と言い捨てた人は
卓見だというほかはない。
つまり現在の社会には、
達者でない芸、
一人前とは言えない教養、
成熟していない精神が、
あらゆる形で
平気で存在できるようになったのである。

曽野綾子さんがマイケルのファンだとは知らなかった。
ちょっと嬉しい。

「報われない」ということへの考察もある。

人生相談で、
隣家の老女の面倒を見てきたのに、
その人が亡くなった時、
その息子から感謝の一言もなかった、
と鬱状態になった女の人の相談だ。
それについては、曽野さんはこう書く。

私にすれば、
この老女との関係は全く完全に成功したのである。
お隣の老女にこの世で、
最後の小さな便利や幸せを贈ったのは、
この投書者の婦人だったのだから、
世間は知らなくても、
この人は、
立派なかくわしい人間関係を築いたのである。
しかしこの人は、
自分の「仕事」が評価されることを望んだ。
別に表彰されることを期待したわけではないだろうが、
少なくとも、深く感謝をされることを望んだのである。

そういう長年の親切を
ほんとうに褒められるのは、
神だけである。
しかし神は、表彰状もご褒美の金もお出しにはならないから、
人間は心の中で
褒められた光栄を味わうだけになる。

私が幼い頃から、
キリスト教の信仰に触れてよかったと思うのは、
自分の行動の評価者として
神しか考えないようになったことだ。
もちろん私も俗物の最たるものである。
お菓子はもらえば嬉しいし、
人間に褒められることは、
これまた私の心をくすぐるものである。
しかし私が何を思って何をしたかを
ほんとうに厳密に知っているのは神だけだ、
という最終の地点の認識はいつも心の中にある。

世間からどう思われてもいい。
人間は、確実に他人を正しく評価などできないのだから、
と思えることが、
多分成熟の証なのである。

亡くなった人の息子から
遂に礼を言われなかった奥さんも、
彼女の行為はすべて確実に
神に見られていて評価されていただろう、
と思えれば、
多分うつになることもなかったであろう。
聖書には「神は隠れていて、
隠れたところのものを見ている」
という思想がはっきり出ている。
だからもっと恐ろしいのだ。

沈黙の価値も書かれている。

一人でいること、と、
人と共に在ること、
とは、
どちらも輝くような時間だ。
沈黙と会話と、
この二つは、
人間の輝ける証である。

そして、本の最後をこのように結ぶ。

私たちは先天的にも、
運命的にも、
常に中間の地点に立つようになっているのだ。
私たちはいいばかりの人でもなく、
絵に描いたような悪人でもない。
よくて悪い人間なのだ。
他人もまた同じだ。
あの人もこの人も、
似たりよったりなのだ。

大人にならない人は、
この宿命的な不純で不安定な人間性の本質がよくわからないだけなのだ。
私たちは相手と決定的にちがうこともなく、
決定的に同一になれるわけでもない。
ちがって当たり前なのだ。
だから対立したこと──思想や政策に関して──は、
次の選挙で争って勝てるものなら、
そうすればいいが、
そうでなかったら、
無視して、
我が道を歩むことなのである。
それより大切なのは、
そんな細かいことを忘れるために、
一人でもいいし、
友達や家族とでもいい、
楽しいお茶を飲むことだ。
そこではみんなが飲み物の種類を選び、
好きなお菓子を取る。
私のような変人は、
お菓子の代わりに、
シシャモの干物を香ばしく焼いて
頭から骨ごと食べる。
シシャモは安い冷凍もの。
カムチャッカ産だったり、
北欧産だったりする。
そうだ。
大切なことは、
お茶を入れて、
すべての些細な対立は、
強靱な大人の心で
流してしまえるかどうかだ。





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