帰国しました  旅行関係

本日午後、
ニューヨークとワシントンDCの旅から帰国しました。

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ニューヨークでは、ミュージカル三昧で、
7本を鑑賞。

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美術館巡りをし、

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ラジオシティ・ミュージックホールのステージ・ツァーに参加し、

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ジャズクラブにも行き、

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新ワールド・トレード・センターにも登りました。

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ワシントンDCでは、

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博物館巡りと

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記念館巡り、

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それにアーリントン墓地と

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硫黄島のモニュメントにも行きました。

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歴史と美術とエンターテインメントに囲まれた
贅沢な12日間

膨大な写真を整理し、
どうブログに書くか、
頭を悩ませています。

旅行記は、順次。


評論集『新聞という病』  書籍関係

[書籍紹介]

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門田隆将によるメディア論。
産経新聞連載のコラム「新聞に喝!」と
月刊「正論」に書かれた内容をまとめたもの。

新聞に対する批判の重点は、次のとおり。

○新聞記者が「偉くなってしまった」
 物理的に偉くなったのではなく、彼らの「意識として」。
 いつのまにか、
 天下国家をあたかも自分がまわしているような錯覚に陥った。
○新聞が事実の報道ではなく、
 自己の主義・主張、すなわちイデオロギーに固執し、
 事実そっちのけで紙面がそのことを
 「訴える場」であるかのように錯覚してしまった。
○まるで反日運動や反原発運動の機関紙と化したような
 紙面作りをしている。
 「新聞は運動体ではない」。
○自己の主張に都合のいい一方の情報だけを伝えて、
 都合の悪い情報は決して報じない日本の新聞。
 もはや、そんなものは「新聞」とは呼ばない。
○ネットの発達によって、新聞だけが伝達の媒体ではなくなった。
 その結果、新聞がいくら一方的な情報で
 読者を誘導しようとしても、
 もはや誰も欺かれはしない。
○国民にとって、新聞は、
 もはや必要不可欠な存在ではなくなった。

憲法議論や安全保障でも、
もはや「左右の対立」ではなく、
「空想家、夢想家(dreamer)」と
「現実主義者(realist)」との対立、
つまり「DR戦争」とも言うべき時代が来ている。
というめざましい指摘もある。
そして、こう書く。

「現実」を見据えている若者と、
主義主張にこだわるだけの新聞との乖離は、広がるばかりだ。


邦人救出問題においても、
「海外での武力行使に繋がる」
「それは憲法違反になる」
という主張に対して、こう述べる。

あくまで何をおいても大切なのは「憲法」なのだ。
「命」よりも「権利」が優先する本末転倒した理論は、
戦後ジャーナリズムの極めて特徴的な傾向であり、
同時に頸木(くびき)」でもある。


新約聖書のルカによる福音書に、
安息日に対する、キリストの言葉がある。
「ここにいるあなた方のうちで、
自分の息子や牛が井戸に落ちたときに、
安息日だからといって引き上げるのをためらう者がいるだろうか?」
安息日とは、ユダヤ教にとって、何もしてはいけない日である。
そのことについて、キリストは
「命と安息日とどちらが大切か」と迫ったのだ。
そして、キリストは、
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、
あなたがたは、わざわさである」

と非難するのである。

熊本地震の時のオスプレイの派遣についての
イデオロギー論争も同じ。

こんな時でも、
新聞にとって一番大切なのは、
「自分たちの主張なのか」と
読者もあきれているだろう。


慰安婦問題に対する吉田捏造証言の誤報、
原発の吉田調書の誤報などについて、
次のように書く。

そこには、どんなことをしてでも、
「日本」そのものを糾弾し、貶めたい、
という朝日新聞の意図が見え隠れしている。


熱心に今も朝日新聞を講読している読者以外には、
根本的な疑問があるに違いない。
それは、
「あなたたちは、
 なぜ事実をねじ曲げてまで、
 日本を貶めたいのですか」
ということだ。
「どうして、朝日新聞はそこまで
 中国や韓国の味方をしたいのですか」
「なぜ、そこまで両国の敵意を煽って
 日本との関係を破壊しようとするのですか」
「朝日の報道によって、
 日中関係はよくなったのですか。
 そして、日韓関係はよくなったのですか」
これらは、朝日の読者以外の
日本国民の素朴な疑問だろう。


結果、
著者は次のような疑問を提示している。

朝日新聞が日本人を貶める目的は一体、何だろうか。
私には、それがどうしてもわからないのである。


これについては、
私は「DNAがそうさせている」
という見解を持っている。
日本人ではないDNA、
反日のDNAを持っているから、
としなければ、
もはや理解は不能なのだ。

「新聞の病」というより、
「朝日、毎日の病」という内容だが、
端的に次のように書く。

朝日新聞の編集方針には、
ファクトが先にあるのではなく、
自分が言いたい「主張」や「イデオロギー」が先にある。


そして、最後に、こう言い放つ。

自己陶酔した記者やジャーナリストたちは、本当にタチが悪い。
勘違いしているだけでなく、
自分に酔っているのだから、
まわりの人間が指摘しても、
耳を貸すはずもなく、
同じ価値観を共有する仲間たちと共に、
「徒党を組む」だけだった。

自分たちが既に「新聞記者」ではく、
「活動家」となり果てていることを認識すべきだ。



映画『あなたの名前を呼べたなら』  映画関係

[映画紹介]

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インドのムンバイ
農村出身のメイド、ラトナが住み込みで働くのは、
建設会社の御曹司アシュヴィンの新婚家庭。
しかし、婚約者の浮気が発覚し、
結婚式は取りやめになってしまった。
その結果、広い高級マンションで
主人とメイドが二人きりで暮らすことになった。
傷心のアシュヴィンを気遣いながら、
料理や身の回りの世話をするラトナ。

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ラトナは未亡人で、都会に出てきた。
しかし、彼女にはファッションデザイナーになるという夢があった。
そのため、午後の2時間だけ、仕立屋に行かせてくれと申し出、
アシュヴィンは快く許可する。
それは、後に裁縫学校での勉強にと発展するが、
その間、次第に二人の心は近づき始めていた。
だが、身分違いの恋が実るはずはなかった・・・

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物語の背景には、
インドを取り巻く因習と身分制度と女性蔑視がある。
未亡人という立場は、その後の人生を閉ざされたも同然。
都会に出たのも婚家の口減らしのためだという。
妹の結婚式でも、未亡人は正式に顔を出すことが許されない。

「未亡人」について、監督は、こう語る。

「都会に住む進歩的な人達でさえ、
未亡人になるということは
実質的に人生が終わったことを意味する場合があります。
未亡人がどんな服を着るべきかに関するルールは
都会ではまだ少ないものの、あらゆる縛りがあります。
私が知っている未亡人で、のちに他の人と結婚し、
前に進んだ人は一人もいません。
すでに子供がいる人は、子供に残りの人生を捧げなければならず、
他の男性と一緒になりたいとか、
誰か一緒に人生を過ごす相手が欲しいとかいう思いが
彼女にあるかどうかは関係ないのです。
そのような思いは、インド社会では完全に否定され、
女性のセクシュアリティーについて話題になることは滅多にありません」

近所のメイド仲間の話で、
主人の奥様や子供との、越えられない身分差の話も出て来る。

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パーティーの場で、客の女性から侮辱を受けたりもする。
それをかばうアシュヴィンはなかなか出来た男だ。

この身分差について、監督は、こう語る。

「私は子どもながらに、この力関係に常に悩みました。
どう理解すればいいのか分からなかったのです。
それから渡米し、
スタンフォード大学でイデオロギーや哲学について学んだ後、
インドへ帰国すると、以前と全く同じ状況でした。
インドと海外を行ったり来たりしながら、
非常に複雑な気分でした。
状況を変えたいと思っても、
簡単にできることではありません。
だからこそ『私に、一体なにができるだろうか』と
自分に問い続けたのです」


ラトナとアシュヴィンの間に恋心が芽生えても、
そう簡単にことは進まない。
仮に結婚したとしても、
メイドあがりだという親戚の目を感じながら生きていかなければならない、
と、アシュヴィンの友人の口から語られる。
映画の中ではカースト制に触れることはないが、
二人のカーストも違うのだろうし、
「不名誉結婚」という言葉も出て来る。

この身分違いの恋についても、監督は、こう語る。

「こういった関係を公にするということは、
不可能に近いことですから、
もし、実際にこういったことがあったとしても、
人々に知られないようにしているでしょう。
未だに社会の厳しい制約が世の中を支配していますから。
仮に、誰かがこういった関係を認めたとすれば、
その人たちは完全に疎外されてしまうでしょうね。
唯一の解決法は、国外へ逃れることだと思います。
もし、それだけの経済力があれば、の話ですが。
いったん国外に出てしまえば、
単に文化や話す言語が異なる2人の男女に戻ることができます」

監督は長編デビュー作のロヘナ・ゲラ

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ロヘナは、アメリカで大学教育を受け、
欧米とインドの文化の違うを体感した女性。
インドの社会に変化をもたらすことができればという思いで制作されたというが、
長い歴史がある社会の常識を変えることは難しいだろう。

恋に破れた傷心の金持ち男が、
身近な自分より下の女に手を出した、
とも解釈される、すれすれのところの
二人の心の揺らぎを女性監督らしい繊細さで描く。

日本のように自由恋愛が認められている国と違い、
異なる文化、宗教背景の世界では、まだまだ不自由が多い。
回教圏に入れば、もっとすさまじいものがあるだろう。

インドのセレブたちの暮らしと、
下層民の暮らしと
両方が描かれているが、
パーティーで料理を供した後、
台所に坐って一人黙々と食事を口に運ぶ姿が胸に迫る。

やがて中国を抜き、世界一の人口を持つ国家になるインド。
そのインドがどう変わるか。
興味は尽きない。

ラトナをティロタマ・ショーム

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御曹司をヴィヴェーク・ゴーンバルが演じるが、

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この二人がもう少し魅力的だったら、
物語に納得性も切なさも生ずるのだが。

なお、原題は「SIR」(サー)で、「旦那様」
ラトナは終始「SIR」と呼びかけ、
名前で呼ぶことはない。
「あなたの名前を呼べたなら」は、日本で付けた題名で、
物語を象徴する、良い題名と言えよう。
ラトナはアシュヴィンを名前で呼ぶことは出来るのか。
最後までご覧下さい。

5段階評価の「4」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/RVtt_x5BRHM

ル・シネマ他で上映中。

タグ: 映画

小説『落花』  書籍関係

[書籍紹介]

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読売新聞(夕刊)に連載され、
単行本として出版。

時は平安時代中期
物語の主人公は仁和寺の僧・寛朝(かんちょう)。
仁和寺の開基である寛平法皇(宇多天皇)の孫にあたる。
敦実親王の長男であったが、
男女の双子で、後から生まれた妹が死産だったことから
不吉不浄として父に嫌われ、寺に入れられた。
いずれは寺を担う高僧と目されていたが、
22歳になった寛朝は思い立って東国へ旅立つ。
寛朝は、梵語や漢語で書かれた経典に
節をつけて唱詠する梵唄(ぼんばい)に優れており、
東国へ行ったままの幻の師と仰ぐ
豊原是緒(とよはらのこれお)を訪ね、
「至誠の声」の教えを受けるのが大きな目的だった。
従者として付いた千歳は密かに別な目的を持っており,
それは、豊原是緒の持つ、
琵琶の名器と言われる「有明」を得ることだった。

しかし、訪れた武蔵国は坂東(ばんどう)と呼ばれる秘境で、
何から何まで京とは違う。
そこで寛朝は平将門とめぐり合う。
部族の争いの中、将門は次第に力をつけ、
東国の新皇と祭り上げられ、
やがて寛朝は「将門の乱」と呼ばれる反乱に巻き込まれていく。

父から疎んじられた寛朝が梵唄を覚えるきっかけは、
幼くして聞いた朗詠、
 「朝(あした)には落花を踏んで、相伴って出づ
  暮(ゆうべ)には飛鳥に随って、一時に帰る」
で、この落花(らっか)が本作品の題名になっている。

物語は、再会した豊原是緒(僧・心慶)と寛朝の関わり、
千歳の「有明」を略奪する策略、
香取の海と呼ばれた霞ヶ浦を根城にする
傀儡女(遊女)たちとの交流などが描かれる。

本質は音楽の追及なのだが、
梵唄やもっと大衆的な催馬楽(さいばら)などの音楽が
具体的に分からない者としては、
イメージが沸かない。

平将門の戦を目撃した寛朝が、
命と命のやり取りを目のあたりにし、
その中に音楽の本質を捉えようとするのも、よく分からない。

戦場に散った兵たちの屍が
大地を赤く染め「落花」として広がり、
その中に寛朝が音楽の本質を捉えようとしても、
よく分からない。

そうだ。
だとすれば、
この世の音に優劣などありはしない。
あまねく声は至誠の声であり、
同時に乱世亡国の声。
我ら凡百が気付かぬだけで、
世の中はすべて尊ぶべき妙音に満ち満ちているのではあるまいか。
涼やかな葉擦れを聞かせる河辺の柳は、
美しき音を奏でんがために
風に向かって枝を伸ばしているわけではあるまい。
空行く雲雀が囀るのは、
その妙なる声を誇ってではあるまい。
すべての音と楽はただそのままに在り、
麗しき音色を奏でる、
至誠の声を求めるなぞ、
愚かな行為だった。
己の声を在るがままに受け止めることこそが、
楽を求めるたった一つの手立てだったのだ。


こんなことを、戦場を通じてでなければ悟れなかったのだろうか?

「ああ──」
世の一切を本来清浄であると説く
『理趣経』(りしきょう)の意味が、ようやく分かった。
そうだ。
この愛欲貪瞋(しん)いの相乱れたこの世においては、
忌むべきものなぞ何ひとつない。
今眼下で繰り広げられている戦が──
そして将門自身がそうであるように、
この世は常に身震いするほど醜く、同時に美しい。
ならばこの世には、
亡国の声も天魔障碍(しょうげ)の声も存在しない。
愚かしくも美しい此岸同様、
すべての音はみな尊く、美しい。
そしてこの愚かなる自分のただなかにも、
己にしか奏することの出来ぬ
至誠の声があるはずなのだ。


ということが
寛朝の到達した境地のようだが、
実感としては分からない。
                                           先の直木賞候補作
受賞は逃した。



映画『メランコリック』  映画関係

[映画紹介]

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東大を卒業したものの、
まともな就職をすることもなく、
実家暮らしでアルバイトにあけくれていた30歳の和彦は、
たまたま訪れた近所の銭湯で
募集の紙を見て、応募し、採用される。
その時、同じ面接で採用されたのが金髪の松本という男だった。

偶然の成り行きから、
その銭湯が営業を終えた後、
風呂場を「人を殺す場所」としてヤクザに貸し出していることを知る。
しかも同僚の松本は殺し屋だった。
無理やり手伝わされた和彦は礼金の多さに驚き、喜ぶ。

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銭湯のオーナー東には借金があるため、
ヤクザの田中の下請けをしていたわけだが、
田中が和彦の存在を危険と見たため、
和彦は抹殺されそうになり、
せっかく出来た恋人とも別れるよう強制される。
家族も危険で、その状況から逃れる方法は
田中を殺すことだと松本から提案を受けた和彦は、
その殺害計画に参加することになるが・・・

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「カメラを止めるな!」同様、独立系の作品。
主人公・和彦を演じた俳優の皆川暢二の呼びかけにより、
アメリカで映画制作を学んだあと
IT業界でサラリーマンをしていた田中征爾(監督)と、
俳優の傍ら
タクティカル・アーツ・ディレクターとしても活躍する
磯崎義知(松本役)
という同い年3人で立ち上げた映画製作ユニット
One Goose(ワングース )による映画製作第一弾。

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第31回東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門で監督賞、
ヨーロッパ最大のアジア映画祭・
第21回ウディネ・ファーイースト映画祭で
新人監督作品賞に輝いた。

駆け出し映画関係者の作品だから、
カット割りは悪いし、
セリフも間が抜け、
お世辞にもうまい映画ではないが、
奇妙な設定、読めない展開、
登場人物の何とも言えない「おかしみ」が逆に新鮮さを与える。

それにしても、
銭湯を殺人現場として提供する
という意表をつくアイデアが面白い。
なるほど、血で汚れても洗い流せば済むし、
死体の処理も釜があるから燃やせば証拠も残らない。
この銭湯、よく撮影場所として提供したものだ。
ちゃんと脚本読ませてもらったのだろうか。

実は、この銭湯「松の湯」は、
東西線浦安駅から徒歩5分ほどの場所にある銭湯。
東日本大震災の時、マンションの水が止まってしまったので、
この銭湯のお世話になったことがある。
のっけから住所表示で「猫実」(ねこざね)という字を見て、
おやおや浦安でロケか、と嬉しくなった。
和彦が恋人と散歩する場面は、
私が自転車で行く、
旧江戸川沿いの道で、遠くに東西線の橋が見える。

和彦を演じた皆川暢二、
松本を演じた磯崎義知が面白い。

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その他、一人として顔を見たことのある役者はいなかったが、
「カメラを止めるな!」に出演した無名の役者が
その後、テレビに出るようになったのと
同様なことが起これば、喜ばしい。

5段階評価の「3.5」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/tH3viviJJlE?t=10

アップリンク渋谷で上映中。

タグ: 映画




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