《非常に重要》「故 梅澤裕氏(沖縄集団自決冤罪訴訟原告)の三回忌 平成28年8月6日(土)のご案内(遺品の展示もあり)、及び供花の申し込み受付。
このブログのページには2点重要な事が記載されています。
@故 梅澤裕氏の三回忌法要 平成28年8月6日(土)のご案内
A三回忌法要への供花申し込み受付。ぜひ多くの方にお願いしたい。(一人でも多くの方に。お一人2000円程度、学生1000円も可)」の2点が記載されています。
南木隆治です。
昨年、平成26年8月6日梅澤裕氏がお亡くなりになって、はや2年が経過しようとしています。梅澤さんが『沖縄集団自決冤罪訴訟』の原告として、赤松さんとともに立ち上がってくださらなかったら、我が国の子供たちに与えられる歴史教科書には今も「沖縄戦において、日本軍に自決を命じられたり、軍によって虐殺されたりした人々も多数いた」と、とんでもない嘘の記述が書かれたままだったでしょう。
梅澤さんが立ち上がってくださったおかげで、長い裁判闘争を通じて、「日本軍による自決命令」などなかった事が今は明らかになっており、教科書からもその記述は消えました。
現在も続いている国際的な『歴史戦』において梅澤さんが果たしてくださった役割は非常に大きく、我々日本国民は、良くぞ立ち上がってくださった梅澤さんの勇気を讃え、そのご恩に報いるために、梅澤さんをずっと顕彰し続けなければならないと私は思っています。
故梅澤裕氏【大乗院勇誉修道裕心居士】三回忌法要のご案内です。
一周忌の時と同様に、歴史的に重要と思われる遺品の展示も、お寺のご好意で、お寺境内を利用して行います。
このメールの下のほうに一部を掲示しています。
平成28年8月6日(土)午前11時より、
故梅澤裕氏【大乗院勇誉修道裕心居士】(平成26年8月6日ご逝去)の『一周忌法要』は、梅澤家の菩提寺である
『浄土宗 鶴林山 性厳寺 慶恩院』(中山正則住職は『総本山 知恩院』布教師です。)の本堂で行います。
場所 〒543-0017
大阪市天王寺区城南寺町5-4
慶応院 本堂
電話 06-6761-5913 最寄駅 地下鉄谷町9丁目、近鉄上本町6丁目
「供花の募集について。」
裁判にご協力くださった皆様。ご友人の皆様。梅澤さんを慕っておられた皆様。梅澤さんを尊敬しておられた皆様。『満中陰法要』、及び『一周忌法要』の際には多くの方からの供花料を賜り、大きな篭を本堂に4つも飾る事ができました。有り難うございました
多くの人と楽しく語り合う事がお好きだった梅澤さんは、一人でも多くの方が供花されると喜ばれるだろうと思います。 今回も南木が責任を持って、お花、花篭を選定し、供花料をお送りくださった全員のお名前を全ての篭に記載して、当日花屋に届けてもらいます。
供花の費用はお一人2000円です。学生は1000円も可
このお寺の境内は、ご幼少の頃、梅澤裕氏がよく遊ばれたところです。梅澤さんのお話に時々出てきた場所です。
梅澤さんはご幼少の頃、このお寺のすぐそばに住んでおられ、時には、お父上様(同じく陸軍将校)が馬で大阪城の練兵場に通勤されるとき、一緒に馬に乗せてもらって行ったこともあったそうです。
供花される方は上記供花料を以下の南木の銀行口座のどれでも結構ですので8月5日正午までに振り込みの連絡を、私宛、1通連絡のメールをください。またそのメールにお名前(氏名)を正確に書いて、教えてください。
(メール宛先
dpait620@kawachi.zaq.ne.jp または
yakata@js4.so-net.ne.jp)
以下の写真のようにご芳名を付けます。振り込み料は恐縮ですが、ご負担お願いします。
南木隆治銀行口座
次の4つの銀行口座はどれでも可能です。
りそな銀行 金岡支店 普通 3249594 ミナキ タカハル
三井住友銀行 松原支店 普通 0678429 ミナキ タカハル
楽天銀行 リズム支店(209) 普通 3483564 TAKAHARU MINAKI
郵貯銀行 店番418(ヨンイチハチ) 普通 8859857 ミナキ タカハル)(店番はヨンイチハチとカタカナで入力)← 郵貯以外の金融機関から郵貯の南木の口座に振り込む番号
郵貯銀行 記号 14130 番号 88598571 ミナキ タカハル ← 郵貯銀行口座から振り込む場合の口座番号
(郵貯銀行間の振込みは振り込み料が無料です。)
添付の写真は満中陰法要のときの写真です。

お花は松原市の私がいつも使っている花屋(ご生前、毎年12月の梅澤さんの誕生日にお渡ししていたお花もここの花屋で作っていました。)はどんな風にでも工夫してくれるので、花屋と相談して適切なものをおつくりいたします。ご芳名はA3程度の用紙に、供花された方全員のご芳名をお付けします。満中陰、一周忌の時と同じく、当日、お寺で撮影して、その写真を報道し、ブログにもずっと残すことにいたします。
満中陰法要、一周忌法要のときの写真と、ご芳名の掲示はここをご覧ください。
重要歴史資料である遺品の展示について。
この写真(旗と、礼服)は、ご遺族が遺品の整理をしているときに出てきたもので、歴史的価値のあるものと思われ、非常に重要なな「支那事変」の本質を示す資料です。
梅澤参謀長、とあるので、国民党軍をこの土地から追放した後、日本は占領地で直接の軍政を敷かず、梅澤さんがその土地の政治をつかさどる、極めて高いお立場につかれる儀式に使われたものだと思います。
これは非常に重要な支那事変(日華事変)(「日中戦争」をいかなる立場で我が国は最後まで戦ったか)の本質を表す資料です。
以下の事が分かります。
日本軍が軍政を敷かず、中華民国のこの地域を、間接統治した事がわかります。
中華民国の年号を使っていることからそう考えられます。
占領地の行政についての非常に貴重な一級資料であると思います。
日華事変は、戦争ではなく事変であり、占領地においても、年号は相手国の年号を使っていたわけで、日本がこの土地を日本に併合しようとしていたのではない事が明らかです。つまり現在のチャイナが主張するような「侵略」の意図などまったくなく、平和を齎すために「内戦」に関わって泥沼に嵌められていった戦争だった事が分かります。
この儀式によって、この地域が、蒋介石の国民党軍支配地域ではなく、汪兆銘の南京政府の中華民国に入ったと言う事なのだと考えられます。またシナ事変と言うものが、はじめから「侵略」ではなく、少なくとも形の上では、二つに(共産党、各地の軍閥なども入り乱れ、実質二つ以上に)分裂している中華民国の一方にわが国が肩入れした状態として戦われたこともよく分かります。
記載にある「民国29年9月」とは昭和15年、西暦1940年9月であって、この年の3月、汪兆銘の中華民国南京政府が正式に始まりました。
シナ事変(日華事変)が単純に「侵略」と断定できるようなものではなく、当時のバチカンも認めていたように、むしろわが国によるシナ大陸解放戦争の面があったことも、よく分かる資料です。
日本が大東亜戦争に勝利していたら、当然そういう事になったでしょう。また、その条件を整えて戦争をしていた事も良く分かる資料です。
貴重な資料であると思います。


ぜひ、多くの皆様のご参列を南木からもお願いいたしますとともに、供花へのご協力も、あわせてお願い申し上げます。
南木隆治拝