ずっと以前にも書いたけれど・・・アタシは特定の宗教には所属していない、嫁いだ先の仏教の宗派というのはあるけれども、これはちょっと反省しなければならないくらいに無頓着でいる。
○○教というようなものにはほとんど無縁であるといってよいと思う。
時々、家に訪ねてこられて、早起き会だとか、手かざしだとか・・・う〜ん いろいろね。無関心だから書き並べることも出来ないσ(^_^;)そういうのは、門前払いに近い対応の仕方をさせてもらっている。また友人の中にも自分の信ずる会について勧めてくれた人もいるけれど、すべて「ごめんなさい」と断ってきた。「友達関係を失いたくないから・・・」とまで、言ったこともある。キヅイやねぇr(^^;)
だから、寄付(お布施)をいくらしないと徳があがらないだとか、何人信ずる人を増やさないとだめだとか・・・そう言うものに関しては端から心がシャットアウト状態。だから、きっと○○の会だとか、○○教だとかのついた本であったら、考えであったら 絶対耳を貸しはしないし、その書物の文字を目で追うことなどは決してしなかったと思っている。
そんなアタシなのだけれど、自然にそうかもしれない・・・と素直に同感できる考え方と何年か前に出会えた。その中味を話したり、書いたりすると「よしりんは きっと何かの宗教に入っているに違いない」と思う人がいるかもしれないくらい、時にはなにやら宗教めいた、不思議な考え方だと自分でさえも思うのだれども。アタシが手にとって読んでいる本のあとがきだとか、本の帯などを読んでいただいたら、そうではないんだ・・・ってことはすぐにわかっていただけると思う。
その本というのはこの間から読んでいる
ブライアン博士の書いた本です。一冊目の本に出会ったのはもう何年位前になるのかな?何年もの年月の間に最近4冊目の著書が出され、今それを読んでいる所なのである。
ブライアン博士の書いたことだけではなくて、もう誰が書いていたのか定かではなくなってしまっているくらい出典は不明だけれど、あぁ ここにも同じことが書いてあった・・・と共通する内容に関してはもう『そうだろうなぁ、そうであって欲しいなぁ・・・』という入れ物の中でしっかりと保管しているものもいくつかある。
この世に生を受けたことには必ず意義・意味がある ということ。それから、自分がこれから生を受けて死を迎えるまでのすべての出来事を一通り見て了解して来るんだって。生まれてくる時代とか親とか兄弟とか家とか・・・環境をも全部自身で選択して来るんだって。
これが、ベースです。
自分で納得してきたんだったら愚痴なんて言ってられない、弱音なんて吐いてられない、自分に負けたくないぞ!!という気持ちが闘志のように湧き上がるよね。
もともと、人生の分岐点では人からのアドバイスなどは参考にさせてもらいつつ、でもすべて自分で決めて納得して進んだ道の延長上が今の自分だと思っているからね。だから今の自分をなんでなの・・・とか、こんなはずじゃ・・・なんて思うことはそれまでの自分に負けることだと思っていたから、その考えにもピッタリとあっちゃったわけね(-^.^-)
でも、答えが出たわけではなくて、自分が生まれてきた意味は?何をするために生まれてきた?って、常にどこかでかすかにでも意識しつつ過ごしています。同じことを重度の障害を持ってアタシの元に生まれてきたにいちゃんの生まれてきた意味だとか、なぜにこの状態で?などというのもよく考えることです。
でも、み〜んな 納得してきたんだよなぁ。
にいちゃんだって例外なく。「あほやなぁ あんたは・・・」なんて、愛しく、切なく なりながら考えることもたまにあります。でも、考えてもこれまでは わかんなかったのよねぇ。
それに対するの答えが、答えなんじゃないかな?と思うこと が今読んでいる本の中に書かれていたのでした。昨日実家に遊びに行って読んでいたときに・・・。「あぁ これをアタシに教えてくれるために出会った本だったんだな」って思ったのでした。ちょっと興奮しちゃったよ。
もしもこの後の部分にあまり役に立たないと感じることばかりだとしてもこれだけでも十分・・・ってことが書かれていたの。
続きはまた今度。そろそろお迎えの時間だわ(-^.^-)

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