2011/8/1

童謡唱歌こぼればなし番外編 知床旅情とオホーツクの船(舟)唄  童謡唱歌こぼればなし
蜂の住むいわきは気温22℃。先月旅した北海道より寒い8月の始まりとなりました。7月の道東旅行でバスガイドさんが『しれとこ(知床)旅情』(森繁久彌歌唱初期のタイトル:しれとこ旅情・加藤登紀子歌唱のタイトル:知床旅情)の原曲は『オホーツクの船(舟)唄』(森繁久彌歌唱のタイトル:オホーツクの船唄・倍賞千恵子歌唱のタイトル:オホーツクの舟唄)と説明してくれ、その歌を歌ってくれました。蜂はこのことは、今回の旅行で初めて知りました。そこで童謡唱歌こぼればなし番外編として『オホーツクの船(舟)唄』を取り上げました。

オホーツクの船唄


                                   作詞・作曲:森繁久彌

                   1.オホーツクの海原 ただ白く凍てはて
                    命あるものは暗い雪の下
                    春を待つ心ペチカに燃やそう
                    あわれ東にオーロラ哀し

                   2.最涯の番屋に命の火チロチロ
                    トドの鳴く夜はいとしい娘が瞼に
                    誰に語らんこのさびしさ
                    ランプの灯影に海鳴りばかり

                   3.スズランの緑が雪解けに光れば
                    アイヌの唄声谷間にこだます
                    シレトクの春は潮路に開けて
                    船人のかいな海に輝く

                   4.オレーオレーオシコイ沖の声舟唄
                    秋あじだいエリャンサ
                    揚げる綱ゃ大漁
                    霞むクナシリわが故郷
                    何日の日か詣でむ御親の墓に
                    ねむれ静かに

オホーツクの船唄 歌:森繁久彌


『知床旅情』は作られた当時は『さらばラウスよ』と題されていたようです。しかし、蜂には『オホーツクの船(舟)唄』から『さらばラウスよ』ができたのか、『さらばラウスよ』から『オホーツクの船(舟)唄』ができたのか、『オホーツク舟唄』と『さらばラウスよ』の関係が今一つ理解出来ませんでした。調べて行くうちに次の三つの記事に行き当たりました。その記事の主な内容を抜粋してみました。


その1:Yomiuri On-Line 北海道発 知床特集(← 記事詳細クリック)

 「国後丸の謙三はおらんけ。けんぞおー」。1960年7月。映画「地の涯(はて)に生きるもの」のロケで、森繁久弥さんが演じる主人公の叫びが羅臼港に響いた。転覆した漁船の生存者や遭難者の遺体を収容して戻った巡視船に飛びつき、必死に息子を探すシーンだ。前年4月には実際に羅臼沖で、突風のため15隻の漁船が次々と波間に沈み、89人が命を失う遭難事故があった。

 羅臼村(現羅臼町)の200人近い村人たちがエキストラを務め、中には本当の遭難者の遺族もいた。森繁さんに呼応するように泣き叫んだ。「撮影が終わっても、泣き声がやまない。みんなが家族同然で、監督もカメラマンも、もらい泣きした」。当時、村財政係長で、ロケ隊の受け入れ、エキストラの確保に奔走した志賀謙治さんは述懐する。
志賀謙治さん
クリックすると元のサイズで表示します


 撮影をすべて終え、ロケ隊が去る7月17日の朝。志賀さんは見送りのため、森繁さんらが泊まっている栄屋旅館を訪ねた。玄関の窓に1枚の模造紙が張られていた。「知床の岬に ハマナスの咲く頃 思い出しておくれ おれたちの事を ‥‥‥‥」さらばラウスよ」と題した、そんな文が書くれていた。目をしょぼつかせて出てきたロケ隊のスタッフに聞くと、前夜、酔って谷内田進村長の家に押しかけた森繁さんは「いい歌ができた」と、この歌詞を歌い、障子紙に筆書きして贈ったという。旅館に戻って模造紙にもペン書きし、寝ていたスタッフも起こして歌わせた。
別れの朝、栄屋旅館の玄関に張り出された
森繁さん直筆の「さらばラウスよ」
(1960年7月17日、志賀謙治さん撮影)
クリックすると元のサイズで表示します


 午前8時過ぎ、別れを惜しんで集まった400人ほどの村人の前に、ギターを抱えた蝶(ちょう)ネクタイ姿の森繁さんと、共演の草笛光子、司葉子さんらが並んだ。「今、日本の国では、人情が紙より薄いと言われていますが、羅臼のみなさんの人情の機微に触れさせてもらって誠にありがとうございました。後々(のちのち)のために歌を作りました。みんなで歌って別れましょう」。そう話した森繁さんが模造紙の歌詞を示し、ギターを弾いて歌った。志賀さんは、持っていたカメラのシャッターを押した。「君は出て行く 峠を越えて」。森繁さんは、小節ごとに繰り返して教え、やがて歌声は村人、ロケ隊全員の大合唱となった。
「さらばラウスよ」を披露し、羅臼の村人に別れを告げる
森繁久弥さん(中央)ら。森繁さんの左後方が草笛光子さん
右後方が司葉子さん(1960年7月17日、志賀謙治さん撮影)
クリックすると元のサイズで表示します



その2:城島明彦(作家)の『ちょっとあぶない雑記帳』(← 記事詳細クリック)

 『地の涯に生まれたもの』という映画が1960年3月から羅臼町、斜里町、網走市などで撮影され、現地の人が協力した。撮影が終わり、ロケ隊が引き上げる前の晩に、ロケ隊が宿泊していた旅館で、地元の人たちとのお別れ会が開かれ、そのとき、ギターの伴奏で森繁久彌が歌ったのが、『さらば羅臼よ』(後日“しれとこ旅情”と改題さらに“知床旅情に改題”)だった。そしてその歌をみんなで一緒に歌い、翌朝、ロケ隊は東京に帰った。
 
『さらば羅臼よ』は昔から地元で歌われてきた曲だったが、うろ覚えの人もが多く、詞も曲も不確かだった。それを吉松安弘という東大出の助監督が取材し、採譜し、採詞したという話は『地の涯に生まれたものについたスタッフの間では有名な話だ。


その3:Yomiuri On-Line 北海道発 知床特集(← 記事詳細クリック)

映画『地の涯に生まれたもの』に森繁久彌さんと共演した司 葉子さんのインタビューの記事です。 

――「知床旅情」はどうやって生み出されたのか

 知床でのロケは、1960年7月の1週間ぐらい。1日の撮影が終わっても白夜のように明るくて、寝るまでに時間がある。宿泊先の栄屋旅館で食事が終わると招集がかかり「森繁談議」が始まるの。森繁さんを囲んで出演者やスタッフがわいわいやって歌も作った。

 ――それが「知床旅情」

 確か、2曲作ったうちの1曲ね。歌ができると翌日、羅臼の学校へ行って、朝礼でオルガンに合わせて生徒さんたちに歌ってもらい、村の人たちにも聞かせた。地元のにおいのするいい歌にしたいからと、村の人と話をしながら作ったんじゃないかしら。みんなで作った歌が、後に「知床旅情」として大ヒットして、びっくりした記憶がある。



 ――羅臼を去るときも歌った

 撮影が終わって最後の日ね。村の人々も一緒に、みんなで大合唱したの。懐かしいなあ。

 ――2曲のうち、もう1曲は「オホーツクの船唄(ふなうた)」ではないか

 そうそう。そちらの方が良い歌だって思ったような気がする。森繁さんの歌って、郷愁が漂っているのね。


以上の三つの記事より推察すると、地元(羅臼)で歌われてきた歌を『地の涯に生まれたもの』の助監督だった吉松安弘さんが取材し、採譜し、採詞し、それを元にして森繁久彌さんが『さらばラウスよ』と題した歌詞(知床旅情と同じ歌詞)と曲を付けた。森繁さんは同じ曲にもう1篇『オホーツクの船(舟)唄』という歌詞を書いていた。そして『地の涯に生まれたもの』のお別れ会に『さらばラウスよ』(知床旅情と同じ歌詞)を歌った(そのときに『オホーツクの船(舟)唄』を歌ったかは不明)。その後1960年『しれとこ旅情』として森繁久彌さんが発表し、1970年に加藤登紀子さんが『知床旅情』としてリリースした。ということになるようです。


倍賞千恵子さん歌唱の『オホーツク舟唄』(フルコーラスバージョン)も素晴らしいですよ
23

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ