山之内製薬 新薬開発開始
神戸市立平野小学校に通学を始めた5月の下旬に突然40度の発熱で苦しみだした。医師であった養母の一番下の弟が診察しても原因が解らない。
そこで養母は養父に電話で相談した結果、県立病院(現神戸医大)の蓮池院長に診察を依頼した。
森岡は高熱で動かすことが出来ず院長先生自ら山之内家に来て診察と検査をして下さった。
検査の結果、ブドウ状球菌による敗血症で生命の危険にさらされて手遅れに近いと診断された。
どこで感染したかは検討がつかなかった。
すぐに養父が学校に連絡して学内で何か関連するようなことがあったか問い合わせた。
そうすると一週間ほど前に校庭周囲の溝掃除を5年生にさせたとの報告が届いた。
多分ブドウ状球菌に汚染され泥水が指の小傷などに付着して感染したのだろうと言う事になった。
養父母は、強引に森岡を実父母から取り戻し万一のことになれば大変な事になる。院長の蓮池先生は米軍が新薬の抗生物質を持っているので、それを入手出来ないか養父に聞いた。
当時、朝鮮戦争寸前で医薬品は米軍と関係があったようで、すぐに養父が手に入れて来た。
国内で臨床試験も何もされていない医薬品だが打たねば生命の維持は不可能と判断。
とにかく先のことは考えず投与したそうだ。翌日熱は下がった。
しかし、それから一週間数時間おきに筋肉注射の連続で注射部分は丸く膨れ上がって痛かった。
当時の薬は今のように万単位ではなく数千単位だったので時間を決めて完治するまで一日に何回も投与を続ける必要があったようである。
完治したら全快祝いに養父母は森岡の大好きなすき焼きをご馳走してくれた。
その時、梅雨時期に採れるサマツと言う松茸が一杯盛られてあった。その美味しかったこと。
それ以来キノコの王の松茸が大好物になった。また病み上がり後には栄養を補給しないといけないと養母は毎日のように夕食にはビーフステーキを食べさせた。
これが日本人では珍しく毎日ステーキを食べても平気な人間になって行った原因だと思う。
学校は夏休みまで休むことになった。
ある日、養母は日本の学校は空襲で校舎は焼け清潔でない。神戸にある国際学校に転入手続きをしたと言うのだ。
1948年(昭和23年)戦災で焼けただれた平野小学校 そして近所に住んでいるクーゲさんと言うドイツ人一家の子供達と友達になってすぐに英会話が出来るようにしなさいと言った。そしてクーゲ家に連れて行かれ挨拶をした。
クーゲ夫妻と長女ローズマリー(略称ローザ)、次女アナリーザ、末っ子ゲハート(略称ブチ=ドイツ語で僕という意味らしい)すぐに国際間を飛び越え友達になった。
特にアナリーザは会話の勉強に協力的であり子供同士の良い遊び相手になった。
9月の新学期から日本人の遊び相手は全くなくなり自然に外人社会に溶け込むようになった。
子供だから同化は早い。またクーゲ夫妻は森岡を特に可愛がって下さった。
翌年の暮れに養母は急に来年甲南中学の試験を受けるので小学校の先生3人に家庭教師を頼んだと言うのだ。
今度はたった3ヶ月で猛特訓の受験勉強である。
2日おきに別の家庭教師が来て、漢字の書き取り、算数の鶴亀算、そして宿題、これには参った。
クーゲ家には遊びに行けなくなったが、年末までは国際学校に通った。
しかしアナリーザだけは私の日本の学校への変更は英語力を無くすと言い毎日のように遊びに来た。
猛烈受験勉強の成果で、目出度く甲南学園中等部に入学出来た。
一方、養父は森岡の急激な完治でこれからは抗生物質の時代だと察知したようである。
戦前にサルファミンで大きく利益を上げた事を忘れるはずはない。
当時日本で抗生物質に関して権威であったU教授に関係を着けて新薬の開発に突入したようである。
しかしその当時は山之内の労使間闘争が激化して労働問題と開発費で莫大な借金と経営難に見舞われ
何時倒産してもおかしくない状況であった。当時のメインバンクは住友銀行であり、この銀行からの派遣役員もいた。
いわゆる銀行管理であるそのような状況下でも養父母は私に対して心配事は決して言わなかった。
山之内製薬に勤務している親族は会社の状況が非常に悪いことを養母に常に伝えてきていた。
特に労働組合との対立で養父の健二(山之内製薬社長)が苦戦している。
この問題が山之内家の存続に大きく影響しているとの事であった。
一方養父は時々帰宅すると森岡のことを「かずのこ」と愛称を着けて真夜中であろうと「オイ、かずのこ起きろ」と言って起しチョッと将棋に付き合えと
言うのだ。森岡に多くの駒を渡し養父は少ない駒で戦ってくる。
色々面白い手を考えて経営難など全くそっちのけの態度であった。
また馬が大好きで所有していた馬が天皇賞を獲得した時、一緒に撮影した写真を誇らしげに見せてくれた。
当時、毎晩のように厚生省の役人と花柳界に遊びに行き、いくら経営難でも遊びの交際費だけはきれいに払っていたという。森岡に花柳界での遊びや交際のことを、あっけらかんと話すのだが
養母はこれを嫌った。山之内製薬が抗生物質の新薬発売前には厚生省幹部とのお付き合いは益々激しくなり養母は毎日嘆く日々が続いた。
今から思うと当時は厚生省の認可を取るのには背水の陣で役人と折衝していたのだと思う。
一方森岡は近所に住んでいたアメリカ人の音楽家ジョン.グランツ氏(ジョン)と知り合いになった。
ジョンはトレーニングの為に1週間に2日程度山之内家のピアノを弾かせて欲しいと養母に頼んだ。
養母が了承すると、素晴らしい演奏聞かせ森岡をとりこにしてしまった。
森岡も日本人のクラシックピアノの先生に付いていたが、余り熱心な生徒ではなかった。
しかしジョンの演奏を聞いてからは違ってきた。彼はジャズ・クラシックその他何でも演奏出来る。
そこでピアノを教えて欲しいとお願いをした。ジョンは「私が出す宿題を次週のレッスン日までに仕上げておくこと約束出来るならば教える。一回でも破ったらそれで終わりだ」と言って了承してくれた。
甲南は中学に入学してしまえば、よほどのことがない限りトコロテン式に大学まで行ける。
中学時代はジョンにピアノの手ほどきを受けたことと模型HOゲージの電気機関車、模型のエンジン付き飛行機、そしてヨットの模型まで作り出した。
養父は毎日厚生省のお役人との接待でほとんど家に帰ってこなかった。
養母のみが私の勉強の状況を観察していた。後継者としてとにかく勉強させないといけないのだ。
そのため時々勉強しているかどうかを勉強部屋に見にくるのだ。
模型を作って遊びたい盛りの私にとっては苦痛であった。
そこで考えついたのが見周りにくる寸前に警報を鳴らす装置であった。
養母が心配したのは一時的に日本語の勉強の途切れた時期があり極端に国語の成績が悪かった。
漢字の書き取りはまったく苦手であったが、本人に勉強する意志がないのでますます不得意になっていた。
机の上には何時も国語の本を置いて書き取りの勉強を繰り返しているように見せかけていた。
そして勉強机の引出しはスムーズに開閉できるように工夫して引き出しの中に模型の工作道具一式をセットアップしてあった。
勉強部屋へ入る手前の廊下に光センサーを設置して養母やお手伝いさんが通過する際に人影でさえぎると引出しの中の赤ランプが点灯する警報装置を開発した。
赤ランプが点灯すると引き出しをそろっと入れて一生懸命書き取りをしている状況を作る。
中学生にしては良く考えたものだ。
一生懸命書き取りをやっている姿を見ると必ずおやつが出て来るのが常であった。
夕方になると勉強は終わったと言って毎日のようにクーゲ家に遊びに行った。
クーゲ家の御主人は家族のように可愛がってくれた。
ある日自作の精巧な模型を持っていったら非常に誉めてくれた。そしてヨットの模型を作って見ないかと言われた。クーゲ氏はヨットの造船技師であったので色々な図面を見せてくれた。
森岡は誉めてもらった嬉しさに「よーし頑張って一隻作るぞ」と決心をした。
そして数ヵ月後に完成させ持参した。
クーゲ氏は森岡を抱きかかえてオオーマイボーイと言って絶賛してくれた。
物を作る事が如何に人を感動させ意義のあることかを感じた。

クーゲ氏の家族 一番左が森岡Kazy Firstman
一方ジョンは毎週森岡にピアノのレッスンを付けてくれた。今まで指導を受けていた先生と異なり楽譜の通りに弾く演奏だけでなく何故この様なメロディーに似合った伴奏の進行になっているのかを理論的に教えてくれました。
今で言うコード奏法である。当時日本においてはこの奏法は普及していなかった。
大変興味を持ち一生懸命自主トレーニングをしたため自分でも上達していくのが感じられた。
ある日トレーニングを見ていたアナリーザも練習をしたいから教えて欲しいと言い出した。
今度は私が教える立場になった。習うのと違い教える方がかえって自分の勉強になり技術向上の一因になった。
その年の12月クリスマスイブにクーゲ家に招待された。
応接間に一台のピアノが設置されていた。これはアナリーザが両親におねだりしたクリスマスプレゼントに買ってもらったようだった。森岡は人前である程度演奏できるレベルに達していたので弾きまくり
大いに盛り上がって一晩楽しく過ごした。
それ以来度々クーゲ家で夕食をさせて頂くことになった。
その翌年の夏はクーゲ家の皆様が山之内家に来られ食事会で大いに賑わった。
クーゲ氏は漬物、納豆が大嫌いであった。森岡も同じく嫌いであった。
しかし家族は日本の食べ物は好物であった。
クーゲ氏はあんな臭い物を食べる連中は野蛮人だと冗談を言って納豆などがあると容器ごとちり箱に捨てていた。
音楽も学べ物作りも良き指導者に恵まれ勉強は、そっちのけで楽しい中学時代を送っていたように今になると思う。
しかし、その時代の山之内製薬は経営難の真っ只中であった。