1937年(昭和12年)
兵庫県神戸市に生まれ幼少時から33才までを過ごす。幼いときからクラシックピアノのレッスンを受けていたが、第二次大戦開戦から終戦の小学校時までレッスンを中断、その後の中学生になるとジャズピアノに興味を持ち、偶然近所に住んでいた日本在住の米国人ジャズピアニストに個人レッスンを受ける。同時期に藤原歌劇団のプリマドンナ市来崎紀子女史よりクラシック声楽トレーニングを受ける。

昭和15年 3歳 ピアノに興味を持ち出した時代、同年第二次世界大戦開戦
1957年(昭和32年)
高等学校時代は音楽に励む一方、独学で身に付けた電子技術を駆使してラジオ受信機、テープレコーダー、ギターアンプなどを自作完成。
1960年(昭和35年)
大学に進学し、電気、電子楽器に興味を持ち、一年生の時には日本で初めてシンセサイザーの前身クラビオリンを開発し完成させた。その後電子オルガンの開発に没頭し、2年後わが国初の電子オルガンを完成させた。それに平行して大学時代は大手楽器メーカーのデモンストレーターやプロバンドに参加し多くのステージを経験。ボーカルもクラシックからポップスに転向し白人系歌手の歌い上げ系ナンバーをピアノの弾き語りで演奏しだした。

筆者の大学軽音楽部時代に結成したプロバンド (ピアノ)
1960年(昭和35年)
大学を卒業後、養父の経営する山之内製薬(現アステラス製薬)の関連会社に就職したが、職業を楽器に関係する仕事にしたいと考え一週間で退社し、養父に内緒でピアノの製造メーカー 渇ヘ合楽器製作所に就職し電子オルガンの開発に従事した。試作完了したカワイ電子オルガンの生産下請契約を締結したテスコ鰍ノ量産指導の為に移籍することになった。
1963年(昭和38年)
テスコ 常務取締役に就任、神戸市に関西販売網の拠点を設立し、一部のテスコ電子楽器開発、関西5都市にショールームの開設、関西から西日本全地区CEOに就任。当時テスコは既にエレキギターを商品化していたが、エレキは楽器業界で市場性がなく、その市場開拓のため色々なミュージシャンに利用を促したりして、苦しい啓蒙運動の時期を経験した。
1965年(昭和40年)
ベンチャーズの来日公演時に、森岡はベンチャーズのリードギター、ノーキー・エドワーズ氏に面会し、全国ツアーにテスコギターアンプを提供する約束をとりつけた。その結果ベンチャーズサウンドの大ブームが到来し急激に市場が拡大し需要に対して供給が追いつかなくなり、本社テスコは莫大な投資をして大型生産工場の建設を開始した。
1966年(昭和41年)
ベンチャーズによるエレキギターの急激なブームは、青少年の不良化という教育委員会の指摘でエレキ禁止命令が出された。そのためテスコは倒産寸前となり、河合楽器に吸収された。それを機会にテスコを退社し同年末ファーストマン椛n立の準備に入った。
1967年(昭和42年)
新年にはファーストマン鰍ヘ創業を開始。森岡は1966年のビートルズ日本初公演でグループサウンズ(GS)ブームの到来を予測し、米国の著名ギター製作者セミ・モズレー氏と出会い、本人自らモズライトギターの開発ポリシーと生産技術の伝授を受けた。そして日本で試作した。その試作完成品は大きな評価を受け日本での生産ライセンスを得てモズライトアベンジャーの量産販売を開始した。同時期にブルーコメッツとの出会いがあり、彼らのファッションと音楽性向上のため完成させたファーストマン・リバプールギターまたバロックベースは、ブルーシャトーのミリオンセラーをきっかけに大ヒットした。ファーストマンの一連楽器はその年のレコード大賞、NHK紅白歌合戦、米国のエド・サリバンショーへの出演などの大ステージがTVで放映され、そのため、テスコ全盛時代のエレキブームが去った後であったが、再びグループサウンズブームによって本格的なエレキギター市場を確立させた。

ギターとベースギターは森岡の第一号ハンドメイド品
1970年(昭和45年)
エレキギターメーカーからキーボードメーカーへと転業しブランド名をヒルウッドと変更した。これはファーストマン鰍フ急激な規模拡大で、社内の役員で他社と秘密裏で会社の乗っ取り計画を画策していた事実が発覚したことと、取引先の倒産が相次いだためであった。
1973年(昭和48年)
ヒルウッドはローランドに先駆けシンセサイザーの開発に成功し量産販売を開始。当時の業界専門誌ミュージックトレードに一連の関連記事が掲載され今も文献として残っている。
1977年(昭和52年)ヒルウッドシンセサイザーのブランドを元のファーストマンに変更しその宣伝活動をするため、平均年齢11才の子供たち5人を集め自ら指導して全てシンセサイザーによる演奏グループの結成準備を開始した。そのなかのメンバーの一人が現在AKB 48の作曲を担当している井上ヨシマサ氏である。演奏の完成を高くしプロデビューを模索していた同時期にYMOのテクノポップが大ヒットし、この子供たちのグループ名をコスミックインベンションと命名しデビューさせた。
1980年(昭和55年)
ヨーロッパの最大手の楽器メーカーであるドイツホーナー社がヒルウッドを訪問し技術提携の話が持ちこまれ、そのときに1960年にホーナー・ワールド・キーボードチャンピオンを受賞したジョージ・マンシーニが同席し徐々に交流が深まった。
1984年(昭和59年)
ホーナー社と提携し会社名をシテック株式会社に変更し、現在主流になっている本格的自動演奏装置つきの電子ピアノを開発した。その当時のホーナーのメインデモンストレーターであったジョージマンシーニ氏と一緒にグループを結成し世界的なデモンストレーションを開始した。
1986年(昭和61年)
山梨県北杜市白州町にシテック山梨音響研究所として長年音楽家として夢を抱いていたスタジオ付きの自宅を自分で設計し建設開始。この建物は音響効果がもっとも優れているログハウスの様式で建設した。
1987年(昭和62年)
完成した建物は、非常にゴージャスであったためマスメディアからの取材やNHKドラマに建物を使用しそれらが数多く放映されたため、これに共感した人々の訪問があり自然に建築依頼が増えたため建築業が主流となりだした。

完成した自宅兼スタジオの全景
自然庭園のプールには名水百選尾白川に流れ込む澄み切った天然水で満たされている

自宅スタジオ内

数多くのミュージシャンが来訪 (三原綱木氏)

(ジョージ・マンシーニ氏)

(次女、森岡みま)

自宅からの秋景色
1990年(平成2年)
アルビスシテック株式会社に社名変更し、ログハウスの現地生産を、アルビスアメリカとアルビスカナダで開始。その後フィンランド・オフィスを開設しインターナショナルで建築業を開始した。わが国においてアルビスはログハウスビジネスで著名な企業として発展して行った。
2001年(平成13年)
建築業と共に、米国西海岸地区にて兼業で、米国の著名ミュージシャンを仲間にしてKAZY & EVERGREEN TRIO を結成し一流ホテルのショーエンタテーナーとして活動を開始した。
2007年(平成19年)
日本でもホテルでのショーエンタテーメントや著名歌手の、作曲、編曲などの音楽活動を開始、良きアメリカ時代の音楽を主体にしたステージで、現在当時の音楽を愛する固定ファンも大勢あり、ライブは常時満席になりだした。しかし平成の不景気で豪華ログハウスのビジネスは徐々に縮小したことと、自分の高齢化を考えて幼少時より愛していた音楽の仕事のみ徐々に専念しだした。
2010年(平成22年)
73才を迎え大腸癌摘出の大手術を受けたが他の臓器に転移していた腫瘍も近代治療により一旦完治させた。現在76才を向え余生を楽しむことに専念し地元で音楽仲間を集めてバンドを結成したり個人のホテルコンサートなども開始している。一方楽器業界在籍時から建築業に至るまでの人生は良いときと悪いときの差が大きく、波乱万丈であった。特に楽器業時代は私個人に対する大きな営業妨害や、中傷のために業界全体で圧力を掛けられたり、電気電子楽器の歴史を自分の都合の良いように自作自演で行なっている経営者がいること、また当時の事実を知っている人物は殆ど他界してしているため、真実の物語をこのページに掲載することを入院中に決心した。

2013/12/22 クリスマスライブで親子デュエット
2014年(平成26年)
現在、この物語の原稿を制作中であるが、随時一区切り完了順に掲載予定である。このページの真実描写に不利益を感じる企業が排除を求める可能性もあり、それらの人物名や企業名は実名を避け、表現方法には多少配慮させて頂いた。 また新掲載で今までの掲載記事と重複する場合は徐々に古い方から削除していきます。当時の参考画像は数多く掲載する予定です。膨大な人生の物語を掲載するため、私の親しい知人を一名管理者として選任し作業を行いますのでお楽しみください。