2010年8月8日(日)atシネスイッチ銀座
シスタースマイル ドミニクの歌
SOEUR SOURIRE
ドミニク、ニク、ニク…♪ 世界中が忘れられない歌がある
名曲「ドミニク」と夢を追いつづけたシスターの心揺さぶる感動の実話


上映時間:124分
製作国:フランス/ベルギー
公開情報:セテラ・インターナショナル
初公開年月:2010年7月3日
ジャンル:ドラマ/音楽/伝記
監督:ステイン・コニンクス
脚本:クリス・ヴァンデル・スタッペン
ステイン・コニンクス
アリアン・フェート
音楽:ブリュノ・フォンテーヌ
出演:セシル・ドゥ・フランス=シスタースマイル(ジャニーヌ・デッケルス)
サンドリーヌ・ブランク=アニー
ヤン・デクレール=ジャニーヌの父(リュシアン)
ジョー・デスール=ジャニーヌの母(ガブリエル)
マリー・クレメール=従妹(フランソワーズ)
クリス・ロメ=修道院長
フィリップ・ペータース=マネージャー(ブリュッソン)
クリステル・コルニル=シスター・クリスティーヌ
ツィラ・シェルトン=最年長修道尼
ラファエル・シャルリエ=ピエール
ヨハン・レイゼン=ジャン神父
ベルナルド・アイレンボッシュ=デュボワ神父
解説:日本でもペギー葉山やザ・ピーナッツがカバーするなど、60年代に世界中で大ヒットした名曲『ドミニク』を歌った“シスタースマイル”ことジャニーヌ・デッケルスの激動の人生を映画化した感動の音楽伝記ドラマ。主演は「ハイテンション」「モンテーニュ通りのカフェ」のセシル・ドゥ・フランス、共演に「トト・ザ・ヒーロー」のサンドリーヌ・ブランク。監督はベルギーの俊英、ステイン・コニンクス。
ストーリー:1950年代末のベルギー。まだまだ保守的な時代にあって、自分の人生を自分で選ぶことを願った女性ジャニーヌ・デッケルス。母親の押しつけに反発してギターを片手に修道院の門を叩く。修道院での厳格な生活に戸惑いながらも、シスターたちや院長から音楽の才能を認められたジャニーヌは、やがて聖ドミニコを讃えた歌『ドミニク』を作曲する。そして、その明るいメロディと美しい歌声が評判を呼び、彼女は“シスタースマイル”の芸名でレコードデビューを果たし、またたく間に大ヒットを記録するのだったが…
(allcinema ONLINEより)
オフィシャル・サイト
(^-^)/★★★☆☆
1曲のヒットの後破滅してしまった修道女歌手のお話。自己中で場当たり的直情型のおよそ修道女には似つかわしくない人物、挙句の果て自殺の道を選択してしまう。
???シスター・スマイルという歌手は本当にこんな人格だったのでしょうか??
ジャンヌ・ポール・マリ・デッケルス=スール・スーリール
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ベルギーの歌手1933年10月17日 − 1985年3月29日
第二次世界大戦中は一家でパリに居住。ここで父はレジスタンス運動に参加していた。
1945年、一家はベルギーに帰国。サン・アンリに住んで学校に通ったが、1953年に単身パリへ留学し、美術学校に学ぶ。美術教師としての訓練を受けてブリュッセルに戻り、女子校で教壇に立った。しかし1959年、ベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院に入ってシスター・リュック・ガブリエルを名乗る。
この修道院でギターを習い始め、作曲を始めたところ音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表。このアルバムに収められた『ドミニク』が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入る。ビルボードではシングル(Hot 100)・アルバムの両チャートで1位を獲得した。彼女は一夜にして国際的なスターとなり、スール・スーリール(シスター・スマイル)の芸名を名乗って、1964年には『エド・サリヴァン・ショー』に出演した。
1960年代後半は敬虔な宗教生活に入り、人前で歌うことをやめた。収入の大半は修道院に寄付していたが、1967年には音楽活動を停止。音楽的には新境地を開きつつあったが、デッケルスは徐々に忘れられた歌手になっていった。一つには、世俗的名声を軽蔑していたためでもある。1967年に出したセカンドアルバムの題名は"I Am Not a Star in Heaven"(私は天の星じゃない)だった。
彼女は大変宗教的だったが、徐々にカトリック教会の保守性に批判の度を強めていき、最後には産児制限の支持者となった。1966年には、ジョン・レノンのキリスト教批判に共感していた。1967年にはリュック・ドミニク(Luc Dominique)の名で、産児制限の賛歌『黄金のピルのために神の栄光あれ』を録音したが、商業的には惨憺たる失敗に終わった。
音楽活動を停止した後、10年来の親友アニ・ペシェルと共にベルギーで自閉症児童のための学校を開いた。しかし1970年代後半、ベルギー政府が彼女に対して5万米ドルの追徴課税をおこなうと発表した。これに対してデッケルスは、金は修道院に寄付したものであり課税の対象外となると主張したが、寄付だったことを示す領収書が存在しなかったため彼女の言い分は認められず、深刻な経済苦に見舞われることとなった。1982年には芸能界への復帰を図って失敗している。そして彼女はペシェルと共に睡眠薬と酒を過剰服用し、自殺した。ペシェルとの間に同性愛関係があったか否かは定かでないが、二人は共同に埋葬された。