私が物心つくかつかないかの小さい頃、叔父が大規模な列車脱線事故に居合わせて救助活動を手伝ったことがある。叔父はもう他界したので確認のしようがないが、以下のどちらかだ。
昭和37年 5月
国鉄・三河島事故
昭和38年11月
国鉄・鶴見事故
叔父の話では・・・一言で言えば、いったいどうやって収容すればいいのか分からない状況・・・だったそうで、その後何日か食事がのどを通らなかったそうだ。
どちらも今回の事故の規模を凌駕する悲惨な事故だ。
こういう大事故の経験を元に人・組織・テクノロジーを改良し、列車はシステムとして安全な乗り物に進化してきた。
犠牲になった人たちや遺族の方にかけられる言葉など思いつかないが、少なくとも大事故を教訓として、さらに安全なシステム実現への加速と、物理的に無理なダイヤの緩和を都会全体の問題として改善していく機運が興ると信じるしかない。時差通勤・・・これだけでも効果はあるんじゃないだろうか。誰しも東京のど真ん中で暴走列車で死にたくはないもの。

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