2009/7/29

綾部水無月大祭宵宮風景 万灯ながし  綾部の文化財

先に図書紹介した「並松史 由良川の流れに沿って・・・並松自治会編」から次の文章を引用紹介します。

☆万灯流しの起こり
 大本の出ロ王仁三郎が、明治40年11月3日(旧暦9月28日)に竜宮乙姫の祭典を行い、28本の燈明を由良川に流したのが、水無月大祭の万灯流しの始まりだとも言われているが、これについては諸説があって定かではない。
 明治39年頃から、並松を中心とする観光開発が始まった。旧綾部藩士の吉川正中、大串重事、石川正時などが資本金65円で「短艇矢艪会(やともかい)」をつくり、大型ボート2隻、小型ボート3隻を買って、貸しボート業を始めた。
 この事業は、翌年の大水害で被害を受け廃業したが、3人は船を浮かべて酒を飲み、釣りをしたリして、悠々自適の生活を楽しんでいた。ある夜、漁師のかがり火が美しく水に映えている様子に感勤し、板に釘を打ちロウソクを灯して川に流しだのが、万灯流しの起こりだという説もある。
 明治40年、綾部実業協会(初代会長四方幸太郎)が設立され、並松で遊船場と貸舟屋が運営されていた。
 並松の現在今枝敏毅さん宅の場所で蚕種製造業や車大工などを営んでいた四方敬肋は、私財を投げ打って並松や味方の川原に桜や松を植えたリ、ペンチを設けたりして観光開発に尽くした。並松区の区長代理も務めた人物である。
 明治44年頃、敬助を中心に梅原弁蔵、梅原宗三郎、白波瀬弥太郎の4人が合資して、今の現長さん前あたりに遊船場を経営した。また、敬肋は遊覧客を集めるためにと火流しを研究し、後に料金をとって20〜30と灯ろうを流すようになったという。
 その後、屋形船も出現した。大正5〜6年頃の好景気の時には、夜も昼もドンチャン騒ぎが行われ、三味線の音が屋形船から流れていたという。

 あやべ水無月まつりは、大正7年、綾部実業協会によって、現在の花火と万灯流しを組み合わせた一大夏祭りとして始められた。万灯流しは当初、並松同志会(40才までの青年男子の会)によって行われていた。
 メインである花火大会は、中丹3市の中でも最も早くから開催されておリ、製糸業を中心として栄えた当時の綾部の隆盛がうかがえる。打ち上げ花火が上げられるようになると、綾部の名物祭りとして広く近郷近在の人々に親しまれるようになった。臨時バスや臨時列車が出された時代もあった。
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夜の由良川を彩り流れる万灯ながし
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万灯の連がりの中に、かすかに流す舟の姿が浮かぶ
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水に万灯が映えて流れる。ホテル綾部の姿が川面にも浮かぶ
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万灯を拡大で撮る。手持ちの小型デジカメでぶれている。露出時間が長い
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綾部大橋の上から流れてくる万灯を撮影



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