2009/1/5

但馬の国の文化財を訪ねて!4回・忠臣蔵・大石内蔵助妻・りくの遺髪塚と子供の墓  文化財研修記

兵庫県豊岡市日撫(ひなし)には円山川東岸に正福寺(曹洞宗)境内に、大石内蔵助の妻りくの遺髪塚と子供の墓がある。正福寺は、豊岡藩筆頭家老石束源五兵衛(いしずかげんごひょうえ)の私寺であった。りくは石束源五兵衛の長女として此処で生まれ、播州赤穂藩大石内蔵助に嫁した。赤穂事件の結果、赤穂浅野家は断絶、りくは元禄14年(1707)、京都の山科(やましな)で夫と長男主税と別れて、生家石束家へ次男・吉千代、長女クウ、次女ルリを連れて帰った。源五兵衛は隠居し真修院(現正福寺の場所)を建て、りく達とともに生活した。りくはここで3男代三郎を生んだ。その後赤穂浪士の討ち入り、そして処刑の報を、りくはこの地でうけた。その使者は赤穂浪士四十七の一人である寺坂吉衛門であり、実際に切腹をしたのは46名であった。次男吉千代は仏門に入ったが長女クワと相前後して没した。のち三男代三郎が12歳の時、芸州浅野家に1,200石で召し抱えられたのを機に、りくは次女とともに広島に移り住み元文3年(1738)68歳で生涯を閉じた。りくの墓は広島市の国泰寺にあり、豊岡の正福寺りくの墓は遺髪塚で、右側が次男吉千代、左が長女クワの墓である。

1.忠臣蔵・大石内蔵助妻りくの遺髪塚の案内看板
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2.正福寺
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3.正福寺境内の大石りく生誕記念碑,向かうは、円山川
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4.同境内の歌碑
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5.正面の大きな墓がりくの遺髪塚でその右側が次男吉千代の墓
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