2021/7/10

綾部市青野町にある高倉宮以仁王の上屋(あげや)を見る!  綾部の文化財

綾部市西青野町に在る高倉宮以仁王の上屋の有る塚を見に行って来ました。この塚は高倉宮が最初に矢傷で亡くなった所と云われた所です。綾部町内の人々は腹痛が起きたらこの塚にお参りすると霊験あらかたで、腹痛は無く成るそうです。そして、この塚からは一切何も拾ったり持ち帰ったりすると災いが起こるといわれ、それを守ってきています。

高倉宮以仁王概略:、12世紀後半、平安時代末期には徐々に武士の時代になりつつあり、まさに平家の全盛の時代であった。平清盛は太政大臣として権力を振るい、治承3年(1179)には後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、翌4年高倉天皇(以仁王の異母兄弟)を退位に追い込み、自らの孫を安徳天皇として即位させた。源氏の有力者源三位頼政は、後白河法皇の第二皇子として将来を期待されていた以仁王を中心に挙兵する計画を立て、以仁王は平家追討の令旨を諸国の源氏に発し,自らも頼政を総大将として平家追討の兵を挙げられた。しかし、頼政方に利あらず、宇治の合戦で敗北、頼政は平等院で自刃。以仁王はそこを逃れ,南都で再興しようと数十騎の側近と南進された。丁度井出の渡し(木津川市山城町)で追撃の平家軍の猛攻撃を受け、以仁王の身代わりとして影武者が討ち死に、以仁王は13名の側近と丹波に逃れ頼政の領地であった吉美卿有岡村目指して10日余りの旅で何鹿郡綾部に着かれ由良川を渡たられたのは治承4年5月下旬か6月初め、農作業の中、里人は都からの高貴な方の到着を喜び笛、太鼓で田楽踊りを舞い今も伝わる「ひやそ踊り」で以仁王を慰めたという。しかし以仁王の矢傷は悪化し、同年6月9日「後世、庶民の腹痛の悩みを我代わって救わん」という言葉を残して昇天された。翌年養和元年(1181)9月9日以仁王の神霊を奥谷の森、高倉に移し奉り、ここに高倉神社が創建された。四方幸則宮司作成文を略す。

1.綾部市青野町の綾部市立病院の職員駐車場の横にある「高倉宮の上場」の台地を見る!
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2.この巨大な台地は巨木で覆われており、登り参道を登って行くと其処には高倉宮の上屋(あげや)と言われる祠がある。
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3.この上屋(あげや)は高倉町の四方信明氏が平成30年に寄進されたもので、左側の祠は十二士を祀る祠です!
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4.掃除して花を供える、小田圭子さんと家内のさと子です!
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5.明治30年の10月の銘がある石燈籠です!
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6.この塚からは位田の高城山が一望できる!
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7.最後にもう一度駐車場から上屋の塚を見る!
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