2020/7/5

舞鶴市の見事な山門を持つ曹洞宗の古刹・般若寺を見る!  文化財研修記

京都府舞鶴市字富室682には曹洞宗で見事な山門を持つ般若寺(はんにゃじ)があります。その見事な彫刻のある山門でも有名です。
曹洞宗慧光山般若寺は天和2年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえる。六ヵ村(富室・西方寺・河原・岡田由里・下漆原・下見谷)の檀那寺であった。
案内板
 〈 慧光山 般若寺(曹洞宗)
開創年代 延宝八年(一六八〇)
本  尊 釈迦如来(座像)
伝法開山 華梁霊重大和尚(桂林寺十七世・「田辺府志」三巻を著す)
法地免許 貞亨三年(一六八六)
開基檀越 南部弥左衛門家
本  堂 文化十年(一八一三)・工事着手(一八〇七)
観音堂  文政十年(一八二七)
     昭和五十五年(一二九八〇)再建
山  門 天保十五年(一八四四)
庫  裡 不明(本堂建築以前の本堂)
     平成四年(一九九二)再建
開山堂  大正九年(一九二〇)
     平成七年(一九九五)再建
般若寺の案内板
当寺の前身は天台宗に属し、その間創年代も十世紀に遡ることが、現存する巻物「般若寺聖観世音記」(元禄十六年・一七〇三)により知れる。
「般若寺聖観世音記」に「般若寺の開基は恵心僧都なり、本尊の釈迦如来は恵心僧都の作にして云々」の一節あり。
恵心僧都(九二四〜一〇一七)は天台宗の高僧なれば、当初は天台宗に属し、場所もこの地より南方二〇〇米余りの「フルボ」(古坊か?)の谷に位置せしものか。時移り、隠山普月和尚(当寺二世・華梁霊重大和尚の弟子)が衰微せしこの寺の再興を発願し、土地の郷士・南部弥左衛門家の後援を得てこれを成就す。爾来三〇〇余年なり。

加佐郡三十三所霊場 第二十一番
  般若寺聖観世音菩薩のご詠歌
心なきふしいのとこに夢さめて
  谷に般若の声をきくらむ

平成十年八月吉日
岡田中むらつくり委員会・ふるさと再発見キャンペーン  〉 

『ふるさと・岡田中』
般若寺本堂
 〈 曹洞宗慧光山般若寺(富室)
慧光山般若寺は慧心僧都の開基であると伝えられている。比叡山延暦寺良源伝教大師より十八代目座主慈慧大師の教えを受けた慧心僧都は、平安時代の末期学徳一世に高く各種の著書を残し、中国においては、皇帝の帰依を得たほどの高僧である。慧心僧都は比叡山横川慧心院にいたので、慧心僧都といい、俗姓卜部氏、名を源心という。
 現在の寺の下手、南方約二百メートルの所に古坊と呼ばれる谷があり、そこにはかなりの規模の石垣跡があり、この地に寺院を開基したと伝えられている。当時は天台宗で、本尊は慧心自作の釈迦像を安置した。これが般若寺の元の位置であり、元寺である。
 草創以来三百年、変遷あってついに衰微してしまった。隠山普月禅師が当地を訪れた時、廃寺同様の当寺を見て、由緒のある般若寺の再興を決意し、元禄癸未七月九日、当地に移り住んだ。時の大庄屋南部豊後守の後裔南部弥左衛門慈光と図り、同氏の後援を得て精美な伽藍を作り当寺を再建した。
 加佐郡誌によると、当山は曹洞宗の禅刹であり、応永八(一四○一)年開創の桂林寺(舞鶴市紺屋町六九)の末寺に当たり、四門主の一つである。般若寺の開創年代は延宝八(一六八○)年で、初代には隠山和尚の師である桂林寺十七世霊重大和尚をすえ、隠山和尚は当寺の二世として住職となると記されている。
 隠山普月大和尚は、桂林寺華梁霊重大和尚の高弟で生国は不明であるが、師である霊重大和尚が播州の生まれで、豊岡の帯雲寺より桂林寺に移っていることと、隠山和尚自身が隠栖の地として出石を選んでいることの二点を考え合わせるとき、出生の地はおそらく但馬と思われる。
 このように般若寺は田辺藩の禅刹の支院であって、十七世華梁霊重大和尚まで開法の道場であった。そして、その嗣隠山和尚の手によって中興が成り、それ以来、百年余を経て堂宇の朽廃甚だしくなり、文化元(一八○四)年甲子六月十八日、檀家に造営を図ったところ、境内が狭隘であるので縦十間余、横二間余、周囲三十間余の石垣を組み、境内を広げる一方、これまで建物全体が西向きであった本堂・庫裡等を南向きに再建することになった。その棟札によると、
   表 文化十年、城主 牧野豊前守以成公、
   奉再建 客殿・庫裡 癸酉三月二十八日 現住九世即道、大庄屋 西方寺村 上野弥市良 他庄屋年寄
   文政十年   十世和尚により裡堂(観音堂)
   天保十五年  十一世和尚により山門
   大正九年   十七世和尚により開山堂
   昭和廿六年  太平洋戦争時供出した焚鐘再建
   昭和五十三年 東堂新築
   昭和五十四年 普山式 十九世 正応英俊(現)
   昭和五十五年 観音堂再建
   昭和五十六年 消火設備完成 水槽消火栓等
   昭和五十八年 本堂屋根葺替
など連年、大事業を遂行し、現在の威容に整えた。

曹洞宗慧光山般若寺は天和2年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえる。六ヵ村(富室・西方寺・河原・岡田由里・下漆原・下見谷)の檀那寺であった。

案内板
 〈 慧光山 般若寺(曹洞宗)
開創年代 延宝八年(一六八〇)
本  尊 釈迦如来(座像)
伝法開山 華梁霊重大和尚(桂林寺十七世・「田辺府志」三巻を著す)
法地免許 貞亨三年(一六八六)
開基檀越 南部弥左衛門家
本  堂 文化十年(一八一三)・工事着手(一八〇七)
観音堂  文政十年(一八二七)
     昭和五十五年(一二九八〇)再建
山  門 天保十五年(一八四四)
庫  裡 不明(本堂建築以前の本堂)
     平成四年(一九九二)再建
開山堂  大正九年(一九二〇)
     平成七年(一九九五)再建
般若寺の案内板
当寺の前身は天台宗に属し、その間創年代も十世紀に遡ることが、現存する巻物「般若寺聖観世音記」(元禄十六年・一七〇三)により知れる。
「般若寺聖観世音記」に「般若寺の開基は恵心僧都なり、本尊の釈迦如来は恵心僧都の作にして云々」の一節あり。
恵心僧都(九二四〜一〇一七)は天台宗の高僧なれば、当初は天台宗に属し、場所もこの地より南方二〇〇米余りの「フルボ」(古坊か?)の谷に位置せしものか。時移り、隠山普月和尚(当寺二世・華梁霊重大和尚の弟子)が衰微せしこの寺の再興を発願し、土地の郷士・南部弥左衛門家の後援を得てこれを成就す。爾来三〇〇余年なり。

加佐郡三十三所霊場 第二十一番
  般若寺聖観世音菩薩のご詠歌
心なきふしいのとこに夢さめて
  谷に般若の声をきくらむ

平成十年八月吉日
岡田中むらつくり委員会・ふるさと再発見キャンペーン  〉 

『ふるさと・岡田中』
般若寺本堂
 〈 曹洞宗慧光山般若寺(富室)
慧光山般若寺は慧心僧都の開基であると伝えられている。比叡山延暦寺良源伝教大師より十八代目座主慈慧大師の教えを受けた慧心僧都は、平安時代の末期学徳一世に高く各種の著書を残し、中国においては、皇帝の帰依を得たほどの高僧である。慧心僧都は比叡山横川慧心院にいたので、慧心僧都といい、俗姓卜部氏、名を源心という。
 現在の寺の下手、南方約二百メートルの所に古坊と呼ばれる谷があり、そこにはかなりの規模の石垣跡があり、この地に寺院を開基したと伝えられている。当時は天台宗で、本尊は慧心自作の釈迦像を安置した。これが般若寺の元の位置であり、元寺である。
 草創以来三百年、変遷あってついに衰微してしまった。隠山普月禅師が当地を訪れた時、廃寺同様の当寺を見て、由緒のある般若寺の再興を決意し、元禄癸未七月九日、当地に移り住んだ。時の大庄屋南部豊後守の後裔南部弥左衛門慈光と図り、同氏の後援を得て精美な伽藍を作り当寺を再建した。
 加佐郡誌によると、当山は曹洞宗の禅刹であり、応永八(一四○一)年開創の桂林寺(舞鶴市紺屋町六九)の末寺に当たり、四門主の一つである。般若寺の開創年代は延宝八(一六八○)年で、初代には隠山和尚の師である桂林寺十七世霊重大和尚をすえ、隠山和尚は当寺の二世として住職となると記されている。
 隠山普月大和尚は、桂林寺華梁霊重大和尚の高弟で生国は不明であるが、師である霊重大和尚が播州の生まれで、豊岡の帯雲寺より桂林寺に移っていることと、隠山和尚自身が隠栖の地として出石を選んでいることの二点を考え合わせるとき、出生の地はおそらく但馬と思われる。
 このように般若寺は田辺藩の禅刹の支院であって、十七世華梁霊重大和尚まで開法の道場であった。そして、その嗣隠山和尚の手によって中興が成り、それ以来、百年余を経て堂宇の朽廃甚だしくなり、文化元(一八○四)年甲子六月十八日、檀家に造営を図ったところ、境内が狭隘であるので縦十間余、横二間余、周囲三十間余の石垣を組み、境内を広げる一方、これまで建物全体が西向きであった本堂・庫裡等を南向きに再建することになった。その棟札によると、
   表 文化十年、城主 牧野豊前守以成公、
   奉再建 客殿・庫裡 癸酉三月二十八日 現住九世即道、大庄屋 西方寺村 上野弥市良 他庄屋年寄
   文政十年   十世和尚により裡堂(観音堂)
   天保十五年  十一世和尚により山門
   大正九年   十七世和尚により開山堂
   昭和廿六年  太平洋戦争時供出した焚鐘再建
   昭和五十三年 東堂新築
   昭和五十四年 普山式 十九世 正応英俊(現)
   昭和五十五年 観音堂再建
   昭和五十六年 消火設備完成 水槽消火栓等
   昭和五十八年 本堂屋根葺替
など連年、大事業を遂行し、現在の威容に整えた。

1.般若寺の標柱と山門
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2.山門
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3.山門を正面から見る!
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4.山門をアップで見る!
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5.山門左側の彫刻
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6.山門中央の彫刻
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7.本堂を見る!
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8.山門の右側を見る!
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9.山門の左の隅のお地蔵様を見る!
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