2020/3/15

京都府綾部市(元、何鹿郡(いかるがぐん)で一番多い姓は四方(しかた)で二番目は大槻の姓!  文化財研修記

四方續夫の名は親父が四方家継ぐように續(つぐ、続)夫と名付けました。四方家の系図があり、中学生の頃、蔵の2階に有ったので当時読んでみたのです。しかし大人になってJTBに勤務して、家系図の重要性を知り、再度蔵の2階に上がって探したのですが、無くなっており,当時生きていた親父に聞くと系図買いに売ったと言ってました。先祖は近江佐々木源氏で六角貞承の一族で戦に敗れ近江国から逃げて、この何鹿郡(現、綾部市の大部分、福知山市三和町の一部、宮の一部、報恩寺町を含む。) に逃げてきて、此処を強奪し、旧姓では危ないので一族郎党は四方の姓を名乗った諭旨です。一番遠方に逃げた四方一族の一部は松江市で数軒の四方の姓の家があります。
尚、四方源太郎京都府議会議員の記事を下記に掲載します。四方府議が書かれたように九鬼隆季公が初代綾部藩主として、鳥羽から綾部に転付された時ンの記事で四方(しかた)何某も隆季公に従って部に転付したと記されています。
 祖父・源太郎が晩年に遺していた文章には「綾部の殿様、九鬼公が三重県松阪から綾部へ転封になられた時、羽室家、大槻家などと四方家も屋敷を与えられ、家号は鍛冶屋といい、殿様から花木瓜(はなもっか)の家紋をいただいた」とある。
 伯父・洋は、祖父・源太郎が死の間際に語ったこととして上記の内容に加え「九鬼の殿様の家庭教師のような家柄であった。殿様といっしょに松阪から、綾部へやってきた」と書き遺している。
 我が家に残る記録は、これのみだ。
 今回の調査の中で分かったこととして、綾部の他の四方姓の方は、先祖からの言い伝えとして「近江源氏(佐々木氏)の一族が戦に敗れて落ち延びて来て、素性を明かさないために四方と改姓した」と聞いておられるそうだ。
 四方と共に九鬼家に用いられた羽室家、大槻家のうち、羽室家はグンゼ創業者・波多野鶴吉の生家でもある。「波多野鶴吉翁伝」には羽室家の由来として「京都の公卿・葉室氏が帰農したもので、家号は京屋という」という説(他にも説あり)が紹介されている。
 大槻家は戦国時代に高津城主であった豪族・大槻氏の一族だと考えられる。
 九鬼の殿様は綾部に入った際に、元々から綾部に勢力を張っていた「土着権力」であった羽室、大槻、四方に一定の庇護を与えることで、土着勢力との融和を図ろうとしたのではないかと思う。
 四方、大槻の多さに比較して、羽室は綾部でもさほど多い姓でないのは、波多野鶴吉もそうだったが、「羽室家は分家して財産が散逸するのを嫌って、次男三男は早めに他家へ養子に出した」という話があるし、公家の出身であれば、一族であっても簡単には名乗れなかったのかもしれない。
 九鬼の殿様は国道173号の三和町との境にある質山のあたりにあった正暦寺を現在の場所(お城のあった大本・長生殿の背後にある本宮山の田野川をはさんで東北)に移している。由良川から正暦寺を見上げると砦のようでもあり、城の守りとして寺を移したのではないかと考えられる。
 同じく、熊野新宮神社も今の場所の隣り(市民センターのところ)に移した。これも由良川からの上陸ポイントになっており、敵が川から攻め込んで来た場合の砦であったと考えられる。
 うちの家は正暦寺の檀家で、熊野新宮神社の氏子であり、城防衛の施設を守る役割を与えられた人たちの中にいたのではないかと考えられる。一方、羽室家の菩提寺は広小路の浄光寺であり、ここもちょうど江戸時代初期は城下町の西の入り口に当たる場所であり、羽室家にも城下の防衛に当たらせたのではないだろうか?
 殿様から与えられた四方家の屋敷は今の大本・みろく殿の奥あたりにあったと思われる。これはちょうど、お城(陣屋)のあった大本・長生殿の真下になる。城の真下に土着権力者の屋敷を置くとは考えにくい。


綾部市観光協会の記事は下記をクリックして見て下さい!
https://www.kyotoside.jp/entry/20190920

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