2019/6/23

京丹波を見る!桜満開の福知山城を見る!  文化財研修記

京都府福知山市内記、福知山市役所横には明智光秀公が丹波掃討の拠点地とし、多くの転用石(日本で一番多くの転用石を使って建てた城は大和郡山城です。)をもちいて城壁を築いた桜満開の福知山城を見ます!福知山城(ふくちやまじょう)は、日本の城(平山城)跡。江戸時代には福知山藩の居城であった。1965年10月14日、市の史跡に指定され2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップもされシンボリックである。また多数の桜が城周辺に植林されており、春には満開となる。小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となる。明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃して死去した。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に林半四郎らに川北周辺で討死した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。天正10年(1582)6月、本能寺の変となり明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に暗殺された。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけであった。福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させた。関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。はじめ6万石で入国したが間もなく(2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)の加増を受け8万石の大領主となった。山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在残る華麗な姿とした。しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封され、翌元和7年(1621年)8月岡部長盛が亀山城から移る。3年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通も福知山城の城主となった24年目の1648年(慶安元年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したのではないかと伝わっている。翌慶安2年(1649年)2月刈谷藩から松平忠房が入部したきた。20年程統治したが島原藩へ転封する。寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された。建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。二の丸の建物は1887年(明治20年)取り払われ、建物一部の瓦は寺院や民家に使用された。二の丸の台地は削り取られ、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、これらは福知山市重要資料に指定されている。最後に残っていた二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、1916年(大正5年)に天守台に移築された。1973年(昭和48年)には東京工業大学の藤岡通夫によって基本設計図が描かれて地質調査も行ったが、オイルショックの影響で天守の復元は中断された[2]。1982年(昭和57年)には塩見精太郎市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上されると、1984年(昭和59年)には再建(郷土資料館建設)期成会が発足した[2]。1口3000円の寄付を募る「瓦一枚運動」などで5億円以上の寄付金を集めた[2]。一般寄付金1億6000万円、国庫補助1億4000万円、京都府補助230万円などを合わせて、総事業費は8億1372万円。福知山市の一般財源にはほとんど頼っていない[2]。1985年(昭和60年)には小天守と続櫓が完成、1知山城は、明智光秀が築造後、その後多少の修築は行われたが、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていた。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。稲葉氏時代の絵図には、本丸と二ノ丸の間は「カラホリ」と「橋」を記している。この時代は本丸と二ノ丸は分断されていたと思われているが、稲葉氏時代の絵図以外には見られないので、それ以外は埋められたものと考えられている。二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われている。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。(ウイキぺデアから抜粋掲載)

1.福知山市役所前から見る!
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2.駐車場から見る福知山城!
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3.堀から太鼓橋と天守閣への登り道!右側の隅櫓は美術館です。
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4.太鼓橋から天守閣を見る!
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5.天守閣への登り道!秋の紅葉が散ると見事な紅葉の絨毯の登り道になります!
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6.入城案内(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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7.かなりの登り道です!秋の11月末には紅葉の絨毯道となります。
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8.桜が満開です!
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9.明智光秀公は家臣に命じて緊急の城壁造りのため多くの石仏などの転用石を用いて城壁を作ったのです。
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10.アップで転用石を用いた城壁を見ます。
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11.昭和61年に再建された天守閣を見上げる。
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12.築城後に余った転用石群(石仏、碑、墓石もあります。)
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13.転用石の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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14.銅門の駒札(同上)
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15.銅門
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16.銅門から見る桜!
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17.咲き誇る桜と隅櫓・天守閣を北から見る!
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18.同上
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19.二の丸から綾部方面を見る!
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20.今回は桜がメインです。他の福知山城は下記をクリックして見て下さい!
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/577.html
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