2019/1/7
京を見る!京都府有形文化財の本堂・開山堂・多宝塔・仁王門など持つ本法寺! 文化財研修記
京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺門前町には京都府有形文化財指定の本堂・開山堂・多宝塔・仁王門などを持つ日蓮宗本山本法寺(ほんぽうじ)がある。叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(1407−88)によって築かれた日蓮宗の本山です。開創の時期や場所については諸説あって、明らかではありませが、永享18年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享12年(1440)に、日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(1455−57)に四条高倉で再建しました。
寛正元年(1460)、2度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。その後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文5年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。
現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました。しかし、天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。
1.本法寺の駒札

2.見事な仁王門

3.仁王門をアップで見ます!

4.阿形の仁王像(金網が邪魔で仁王像の撮影は不可能です!)

5.多宝塔と本堂

6.駒札

7.大摩利支天堂

8.堂内陣

9.見事な本堂

10.見事な多宝塔

11.庫裡と玄関

12.国重文の長谷川等伯の釈迦涅槃図

13.同上

14.庭と山門

15.本阿弥光悦作の本法寺庭園へ

16.本阿弥光悦作の国名勝庭園「三巴の庭」

17.同上

18.三巴の庭の意味

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寛正元年(1460)、2度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。その後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文5年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。
現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました。しかし、天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。
1.本法寺の駒札

2.見事な仁王門

3.仁王門をアップで見ます!

4.阿形の仁王像(金網が邪魔で仁王像の撮影は不可能です!)

5.多宝塔と本堂

6.駒札

7.大摩利支天堂

8.堂内陣

9.見事な本堂

10.見事な多宝塔

11.庫裡と玄関

12.国重文の長谷川等伯の釈迦涅槃図

13.同上

14.庭と山門

15.本阿弥光悦作の本法寺庭園へ

16.本阿弥光悦作の国名勝庭園「三巴の庭」

17.同上

18.三巴の庭の意味

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