2017/8/28
越後を見る!3.越後守護代長尾氏が創建し上杉謙信公のお墓のある林泉寺! 文化財研修記
上越市春日山の麓には、明応6年(1437)、越後守護代・長尾能景が亡父の17回忌供養のため曇英恵応を開山に拝招して創建した。能景とその子・為景の保護を受けて守護代長尾氏の菩提所として発展した。 天文5年(1536)に為景が死ぬと為景の末子・虎千代(のちの上杉謙信)が7歳で林泉寺に預けられ、14歳で呼び戻され元服して景虎と称するまで林泉寺の六世住職・天室光育から学問を学んだ。景虎がのちに上杉氏を継承し上杉輝虎を称すると林泉寺は上杉氏の菩提寺となる。輝虎は七世住職益翁宗謙のもとで参禅し、元亀元年(1570年)に剃髪したとき師の諱から一字を取って不識庵謙信と号した。
天正6年(1578)に急死した謙信の遺骸を収めた棺は、謙信の号のもととなった春日山城内の不識院に埋葬されたが謙信の養子・景勝が慶長3年(1598)に会津へ、慶長6年(1601)に米沢へと移封されたのにともなって米沢へと移された。通説では林泉寺もこれにしたがって移転したとされている。開山以来の袈裟と持鉢は上越市の林泉寺に残されており法統上の正統を伝えている。上杉氏移封後は春日山城下に残された林泉寺は一時衰退するが上杉景勝に代わって春日山城主となった堀秀治によって再興され、春日山城主・堀氏、堀氏改易後高田城に入封した松平氏、18世紀前半から明治維新まで高田藩に在封した榊原氏と歴代の上越地方の支配者により菩提寺として尊崇を受けた。堀家は堀秀重、堀秀政、堀秀治3代の位牌と墓がある。
江戸時代の林泉寺は江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠から御朱印で寺領224石を授けられ、高田藩主から禁制の特権を与えられていた。しかるに寛永年間及び弘化4年(1847)の2度の火災で本堂や山門などが焼失する。
1.林泉寺の一図(春日山城跡の右下の麓です。)

2.同上

3.春日山城跡唯一の惣門を移築したものです!

4.阿形の仁王像

5.吽形の仁王像

6.惣門の見事な天井画の一つ

7.同上

8.本堂へ向かう!

9.大槻槃添翁作「春日山懐古」

10.上杉謙信公への献上歌碑

11.駒札

12.見事な本堂

13.本堂の見事な釈迦如来三尊像

14.上杉・堀家のお墓の参道

15.上杉謙信公のお墓

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天正6年(1578)に急死した謙信の遺骸を収めた棺は、謙信の号のもととなった春日山城内の不識院に埋葬されたが謙信の養子・景勝が慶長3年(1598)に会津へ、慶長6年(1601)に米沢へと移封されたのにともなって米沢へと移された。通説では林泉寺もこれにしたがって移転したとされている。開山以来の袈裟と持鉢は上越市の林泉寺に残されており法統上の正統を伝えている。上杉氏移封後は春日山城下に残された林泉寺は一時衰退するが上杉景勝に代わって春日山城主となった堀秀治によって再興され、春日山城主・堀氏、堀氏改易後高田城に入封した松平氏、18世紀前半から明治維新まで高田藩に在封した榊原氏と歴代の上越地方の支配者により菩提寺として尊崇を受けた。堀家は堀秀重、堀秀政、堀秀治3代の位牌と墓がある。
江戸時代の林泉寺は江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠から御朱印で寺領224石を授けられ、高田藩主から禁制の特権を与えられていた。しかるに寛永年間及び弘化4年(1847)の2度の火災で本堂や山門などが焼失する。
1.林泉寺の一図(春日山城跡の右下の麓です。)

2.同上

3.春日山城跡唯一の惣門を移築したものです!

4.阿形の仁王像

5.吽形の仁王像

6.惣門の見事な天井画の一つ

7.同上

8.本堂へ向かう!

9.大槻槃添翁作「春日山懐古」

10.上杉謙信公への献上歌碑

11.駒札

12.見事な本堂

13.本堂の見事な釈迦如来三尊像

14.上杉・堀家のお墓の参道

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