2016/7/23

高知・伊予を見る!7.長宗我部元親の愛馬の塚と元親のお墓!  文化財研修記

高知市浦戸の「一領具足供養塔・六体地蔵」から花街道・県道14号線を少し歩き、右に折れて300メートルで「元親公史跡バス停」にいいたる。「愛馬の塚」は長宗我部元親が秀吉から拝領した『内記黒』の墓であると伝えられている。『土佐物語』によると、戸次川合戦のとき、四国勢は作戦の失敗から、薩摩勢の猛攻により指揮系統は分断され、乱戦の中で信親の生死も分からず、主従わずか21騎となった元親は、武運もこれまでと馬を捨てて戦い、敵陣に斬り込もうとしていた。これを見て、家来の一人が走りよっておしとどめ、自分の馬に乗せようとしたところ、奇跡的にも戦場から内記黒がかけてきたので、家来は「これぞ家運の尽きぬしるし」と大いに喜び、元親を乗せて敵中を突破し、府内に逃れることが出来た」と記され、内記黒が元親の命を救ったという逸話が残っている。

1.愛馬の塚(表)
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2.裏側の碑文
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長宗我部元親の生涯
●岡豊城1539年1歳)土佐国岡豊城主、長宗我部国親の長男として生まれる。
1560年遅い初陣(22歳)
●家督相続は 父、国親の死により、家督を相続する。1563年(23歳)(25歳の時、美濃国の斎藤利三の娘と結婚。
●土佐平定1574年(36歳)土佐国中村の一条兼定を豊後国へ追放。1575年(37歳)
再起をはかり挙兵した一条兼定に勝利し、土佐国一国を平定。(四万十川の戦)その後は織田信長と誼を通じ、領土拡大を目指す。
●信長との対立が起きる!1582年(44歳)その台頭を快く思わない信長と対立するようになり、四国征伐の準備までされていたが、本能寺の変による信長の死で窮地をしのぐ。中富川の戦で、信長に従っていた十河存保に勝利し、阿波国を配下にする。1583年(45歳) 引田の戦で十河存保の援軍、仙石秀久に勝利する。 十河城を攻め落とす。これにより讃岐国を平定。
●四国平定は1585年(47歳)伊予国も攻略し、この時点で四国全土をほぼ支配下に置く。
●羽柴(豊臣)秀吉の10万による四国攻めに抵抗するが敗北し降伏、土佐国一国だけを安堵される。1587年(48歳) 秀吉の九州攻めに従軍。この際の、戸次川の戦で嫡子信親が戦死。
1590年(52歳) 秀吉の小田原城攻めに、水軍を率いて従軍。1592年〜1597年 (54歳〜59歳) 二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役・慶長の役)に参陣。1597年ころ(59歳) 領国統治のための法典「長宗我部元親百箇条」を制定。1599年(61歳)で京都伏見で病没する。 伏見で病没し遺骸は土佐に贈られ埋葬された。土佐国の小さな領主に過ぎなかったが、勇猛果敢な戦術でわずか10年で四国をほぼ平定した。しかし折悪しく天下統一事業を進めていた信長・秀吉の全盛期と重なってしまい、その夢は長くは続かなかった。 嫡男の戦死後、養子に出していた二男や三男ではなく、四男の盛親を後継に指名したことから、相続問題が生じた。大阪の陣で敗退、土佐は山内一豊が入府する。

3.県史跡「長宗我部元親のお墓に向かう!(天甫寺山(てんぽじやま)の中腹)
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4.長宗我部元親公のお墓
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5.同上
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6.駒札
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