2016/1/23

豊後・阿蘇を見る!1.(新シリーズ開始)大友宗麟公と聖フランシスコ・ザビエル!  文化財研修記

大友宗麟(義鎮)公は享禄3年(1530)1月3日、大友家20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれる。父義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、傅役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企んだ。天文19年(1550)2月に義鎮を強制的に湯治に行かせている間に義鎮派の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、21代当主となった。天文20年(1551)に周防の大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。同時に大友家にも服属することになり、周防・長門国方面にも影響力を確保した。特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。天文23年(1554)には菊池氏を滅亡させて肥後国も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き天文22年(1553)に一萬田鑑相(のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父)、弘治2年(1556)には小原鑑元が謀反を起こすなど義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。さらに弘治3年(1557)、大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前国の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。将軍家との関係を強化していた義鎮だが、豊前国・筑前の守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された。永禄3年(1560)には、左衛門督に任官する。 このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出した。しかし、永禄5年(1562)には、門司城の戦いで毛利元就に敗れた。同年に出家し休庵宗麟と号す。天正4年(1576)、家督を長男の義統に譲って隠居する。このときから義統と二元政治を開始した。 天正5年(1577)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始すると、宗麟も大軍を率いて出陣した。しかし天正6年(1578)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。  また、家督を譲った義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。
 島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。宗麟は本州で大勢力となった織田信長に接近し、島津氏との和睦を斡旋してもらう。さらに信長の毛利攻めに協力することなどを約束していたが、本能寺の変で信長が倒れたことによりこの和睦も立ち消えとなった。。家臣の高橋紹運・立花宗茂父子の奮戦で島津軍の侵攻を遅らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなっていた。このため天正14年(1586)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願する。しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し(豊薩合戦)、天正14年(1586)12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。杵城を死守し戦国大名としての意地を見せた。 しかし大友氏はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められた。天正15年(1587)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着。さらに遅れて秀吉自身も10万の兵を率いて九州平定に出陣、各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後津久見で病死した時には58歳で死因はチフスが有力とされている。(少々長文ですが、大友宗麟公を理解してもらうには必要な文です。)

1.JR京都駅南口前の京阪ビル地下1階にある「鳥楽」で夕食
クリックすると元のサイズで表示します

2.メニュー
クリックすると元のサイズで表示します

3.焼き鳥10本(勿論ビール、焼酎、サラダも食した。)
クリックすると元のサイズで表示します

4.JR京都駅南口周辺(近鉄バスが一番いいのだが、大分交通と相互乗り入れでこの日は大分交通で夜8時10分発でJR大分駅前には翌朝午前8時20分に到着)
クリックすると元のサイズで表示します

5.JR大分駅とJRホテル九州ブラッサムホテル(左側の高い建物)に4連泊
クリックすると元のサイズで表示します

6.JR大分駅前の「大友宗麟公像」
クリックすると元のサイズで表示します

7.同上 碑文
クリックすると元のサイズで表示します

8.JR大分駅前の「聖フランシスコ・ザビエル像」
クリックすると元のサイズで表示します

9.同上 碑文
クリックすると元のサイズで表示します

10.津久見市にある宗麟公園の「大友宗麟公のキリスト教のお墓」(写真はお借りしたものです。)
クリックすると元のサイズで表示します

11.同上     「仏教形式のお墓」(写真はお借りしたものです。)
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 



コメントを書く


この記事にはコメントを投稿できません




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ