2015/12/8

丹波の寺社を見る!1.天田郡大呂の明智光秀公所縁の古刹・臨済宗妙心寺派の天寧寺!  文化財研修記

丹波国の寺社めぐりの開始です。まず最初は福知山市大呂1474にある臨済宗妙心寺派の古刹・紫金山「天寧寺(てんねいじ)」を訪れます。天寧寺は貞治4年(1365)愚中周及が開いた禅宗文化を伝える名刹です。愚中周及は中国に渡り即休契了の教えを学び、各地で禅を広めた後、丹波国金山地頭の建立した天寧寺の開山となりました。その後、愚中和尚は紀州・安芸国で禅を広め4代将軍足利義持公の帰依を受け、応永16年(1413)に亡くなった時には、」小松天皇より諡号(しごう)を受け、義持公は天寧寺を祈願寺としています。この時代には36ケ寺の末寺を持つ本山として繁栄していましたが、地頭の金山氏が没落すると天寧寺も衰退しました。寛永12年(1635)に妙心寺より萬休彗重が入山して、再興しましたが、安永6年、昭和36年と2度の火災に遭っていますが、再建して現在に至ります。)明智光秀公と天寧寺:福知山の北方の山間にある足利家ゆかりの大呂天寧寺に保存されている光秀花押・秀満花押の文書が残っています。この天正八、九年当時に光秀・秀満が手書きした判の文書を受け取った寺が、その実物を今に持ち伝えています。それだけでも特記すべき事柄ですが、ここに書かれている内容は、「この寺は陣地にしてはならぬ、竹木も切ってはならぬと」光秀が宣言しているのですが、それが末寺の臣唱寺にまで及んでいたことがわかったんのです。この臣唱寺に置かれていた天寧寺開基の金山氏の墓石は城の石垣に運び去られずことなく、そのまま残されてあったのを、明治になって寺が小学校になり、次に公会堂として移されたので、その臣唱寺の墓石を天寧寺へ運び、現在は石段の門を入った左側にずらりと並べて祀られています。また、天正九年十月六日付、秀満の諸色免許状は、光秀公の判物を確認したが、間違いないもので、私も判物の通り天寧寺を安堵しますと書かれています。文書に書かれた内容がその通り現物で事実を証明し、光秀・秀満の人柄を思わせる貴重なものと思われます。

1.天寧寺の標柱(随分本堂から離れています!境内が広大です。)
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2.福知山10景の一つ櫻並木の参道
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3.櫻と庫裡
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4.山門から薬師堂を見る!
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5.歴代住職のお墓
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6.「羅漢図に心洗われる蝉しぐれ」の句と薬師堂
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7.薬師堂(京都府指定文化財の本堂で寛政6年(1794)の建立。丹波・丹後で唯一の禅宗仏殿の正規の形式を持っている。迫力ある雲龍の天井絵は著名な画家の原在中の作で大工は服部太郎兵衛、今井万右衛門、同 八郎右衛門で内部の見学は不可です)
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8.寛政5年(1793)の建築で六角円堂で土蔵造りの開山堂(京都府指定文化財)
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9.京都府指定文化財の鐘楼
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10.研修道場(座禅は毎月第3金曜日12時〜3,000円で昼食付)
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11.駒札
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12.帰路の参道
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