2015/8/18

小さな越前の旅!3.福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館!  文化財研修記

今からざっと30年前の夏休みに男の子3名と家内と5名で一乗谷朝倉氏史跡とその特別名勝庭園を訪れた。何もない野原と一乗谷川のみであった。これが30年後福井県民の総意で見事に発掘され、復元されていた。一乗谷朝倉氏遺跡の手前に福井県立一乗谷朝倉遺跡資料館があるので訪れた。朝倉氏はもと但馬(たじま)国(兵庫県)の出身で南北朝の争乱の時、広景は北朝方の斯波高経にしたがって新田義貞などの南朝方を討ち破った功により越前に所領を得、以後代々越前守護斯波氏に仕えました。広景から7代目の孝景の時応仁の乱が起こり、朝倉氏はこの混乱の中で主家斯波(しば)氏を追放し越前の支配者に台頭しました。居城を一乗谷に構えたのもこの頃であったといわれています。孝景が没した後は子の氏景が跡を継ぎ、甲斐氏との抗争に打ち勝って実質的な越前国の支配権を確立しました。氏景没後3代城主となった貞景は敦賀の同族景豊(かげとよ)の反乱、加賀一向一揆の侵入と朝倉氏最大の危機に遭遇しますが無事に乗りきり、次の4代孝景にいたって朝倉氏の最盛期を迎えるところとなります。孝景は若狭、近江、加賀などの隣国へ出兵しましたが、これは朝倉氏の越前支配が安定していたことを示します。孝景が没し朝倉氏最後の城主となる義景が跡を継ぎますが、義景の生涯の大半は加賀一向一揆との抗争に明け暮れ、一揆との和睦から死にいたる数年間は織田信長との対決でした。信長と数回鉾を交えますが、浅井長政救援のため近江に出陣した朝倉方は壊滅的な打撃をうけました。義景は一乗谷城を捨て大野六坊賢松寺にのがれますが、一族景鏡(かげあきら)に包囲されて自刃し、ここに朝倉氏は滅亡したのです。朝倉氏100年の歴史は戦いに明けくれた日々だったといっても過言ではありません。朝倉氏の合戦はその内容によって1.興隆期における斯波・甲斐氏との戦い、2.一向一揆との絶えまない戦い、3.安定期をむかえて国内における朝倉景豊・堀江氏の謀叛(むほん)の鎮圧、4.国外への出兵、5.朝倉義景の代における織田信長との戦いなどに大きく分けることができます。永正3年(1506)の一向一揆との合戦は、初期の一向衆との大規模な合戦で、朝倉氏はこれを打破したことによって越前領国支配を確立したといえます。織田信長軍との手筒・金ケ崎(てづつ・かながさき)合戦では、朝倉軍の総力が3万人であったことなどがわかっています。

1.福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(この資料館と現地見学で2時間強!230円と安い!)
クリックすると元のサイズで表示します

2.現在地
クリックすると元のサイズで表示します

3.特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡と特別名勝一乗谷朝倉氏庭園図
クリックすると元のサイズで表示します

4.見学スタート地点
クリックすると元のサイズで表示します

5.駐車場(南入口より見学開始
クリックすると元のサイズで表示します

6.下記をクリックして、「音声付動画」復元街の様子をボランテアガイドさんに聞いて下さい!
https://youtu.be/U1R1UlYDBsA

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 



コメントを書く


この記事にはコメントを投稿できません




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ