2015/8/14

小さな越前の旅!1.現存する日本最古の天守閣を持つ丸岡城2−1!  綾部の文化財

織田信長の越前一向宗平定の為、大軍を送り、攻め滅ぼした。そののち、柴田勝家が北庄(きたのしょう)に入り甥で養子の柴田伊賀守勝豊に命じ天正4年(1576)はそれまでの豊原寺城から便利な当城を築き4万5千石で移った。天正10年(1582) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。天正11年(1583) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。慶長5年(1600) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。慶長17年(1612) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主となった。寛永元年(1624) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。元禄8年(1695) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。福井大地震後、平成2年(1990) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。又平成2年に「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定された。平成18年(2006)には日本100名城の36番に選定された。

1.舞鶴若狭道は敦賀ICと接続した。ここは三方五湖PAです!
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2.北陸道から敦賀湾を見る!
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3.丸岡ICで降りて丸岡城の駐車場の駒札
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4.天守閣への登り道
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5.同上
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6.天守閣前広場の見事な櫻の木
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7.丸岡城八幡神社由緒
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8.同上  標柱
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9.丸岡城八幡神社
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10.丸岡城天守閣が見える!
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11.お静の涙雨の駒札
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12.お静の涙雨碑
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