2006/10/30

歴代天皇事典  図書紹介

四方續夫事務局長より、投稿の某八幡宮の祭神について応仁天皇とあるのは誤字で八幡大菩薩=応神天皇、母:神功皇后であるとの指摘があった。
歴代天皇について文庫本「歴代天皇事典:高森明勅著:PHP文庫が出版されたので紹介する。なお綾部=漢部に関係の深い漢氏(あやし)、秦氏(はたし)の来歴についても記述があり、応神天皇の項を引用する。
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第十五代 応神天皇
御名・異名:譽田別尊(ほむたわけのみこと)生没年:?(?〜394?)(?歳)、在位:41年?、父:仲哀天皇、母:気長足姫尊(神功皇后)、皇后:仲姫命(五百城入彦皇子の孫)
 仲哀天皇の死後、皇太后(神功皇后)が朝鮮に出兵し、新羅を服属させた。そして、筑紫に帰り、皇子を産んだ。こうして誕生したのが譽田別尊だが、出産のとき、この皇子の腕には肉が盛り上がっていた。それが、皇太后が雄々しく男装して鞆(ほむた:弓の弦が左臂に当たるのを防ぐためにつける革製の道具)をつけたのに似ていた。そこで、それをたたえて譽田天皇といった。
 譽田別尊は幼いときから聡明で、ものごとを深く遠くまで見通した。立ち居振舞いにも不思議と聖帝のきざしがあったという。三歳で皇太子となり、摂政として政事を行っていた皇太后が崩御すると、即位した(応神天皇)。
 応神天皇は四世紀後半から五世紀前半にかけて活躍したと考えられる天皇で、皇太后のあとを受けて、積極的な外交を行った。高句麗、百済、新羅から入貢があり、それに伴いたくさんの文化や技術も伝えられた。たとえば、応神十六年に百済から王仁が来朝し、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらっこ)に諸々の典籍を教えた。この王仁の来朝により、日本に儒学が伝来されたといわれている。
 かっては、文字が日本に伝わったのも王仁の来朝によるものといわれてきたが、文字の伝来はずっと古く、一世紀には入っていたと考えられる。
 技術についても、応神20年に漢人の阿知使主(あちのおみ)が大勢の人々を率いて日本に渡来し、漢氏(あやし)となって大陸の新技術を伝えた。
 また、秦の始皇帝の子孫という秦氏が日本に渡来したのも天皇の時代といわれ、秦氏は各地に分散して養蚕、機織の技術を広めた。こうして日本は、政治、外交だけでなく、文化や学問においても国家としてより一層発展していった。
 応神二十二年、天皇が難波の大隅宮で高台に登って遠くを眺めていると、妃の兄緩(えひめ)が大いに歎いた。そこで天皇が理由を問くと、「父母が恋しく悲しくなったのです」と答え、「しばらく親元へ帰して欲しい」と願った。すると天皇は、兄緩か何年も両親と会っていないのを思い、ただちに願いを聞いたという。
 天皇は『古事記』によると百三十歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。応神天皇陵といわれる誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市)は、国内第二位の大規模な古墳として知られている。



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