2013/8/13

畿内の文化財・史址を見る!57(最終回)大東市の慈眼寺(野崎観音)!  文化財研修記

 大阪府大東市野崎2丁目7−1には曹洞宗で山号・福聚山(ふくじゅさん)慈眼寺(じげんじ)通称は野崎観音でより有名な寺がある。
 江戸時代より続く、有縁無縁問わずすべてのものに感謝を捧げる『野崎参り』で知られ、その期間である5月頭は参拝客で賑わう。人形浄瑠璃や落語の作品を通じても知られている。境内には南條神社や役小角像も鎮座し、神仏習合や修験道の歴史を今に伝えている。四天王によって守護される本堂には、十一面観音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られており、平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」には、黄道十二星座が表現されている。本堂周囲には当寺中興の祖と位置付けられる遊女、江口の君(江口の長者)を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子(十六羅漢、じゅうろくらかん)を祀り、北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」とユーモラスに歌われる羅漢堂などがある。ただし、羅漢堂は昭和26年に山崩れによって流失し、羅漢像そのものは修復されたものの、現在あるのは仮設堂である。境内からは吊り橋を通って飯盛山などへ至る登山道があり、休日は登山者も多い。
 天平勝宝年間(749−757)にインドから来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語り、それを受けて行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたといわれている。
 中世以後は戦乱により衰微し、特に永禄8年(1565)には三好義興・松永久秀の戦禍(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼した。元和2年に(1616)青厳によって再興され、天和2年(1682)に野崎参りが始まる。元禄・宝永年間(1688−1710)に野崎参りが盛んになるにつれ繁栄するようになった。
 かつては西側一帯は大坂からつながる大きな池(深野池)があり、大坂からは野崎参りの屋形船が行き来していた。大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川を行き来するようになった。 天満橋にあった八軒家船着場から上っていくのが有名であり、陸路を歩く参拝者と罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたと伝えられている。

1.福聚山(ふくじゅさん)慈眼寺(野崎観音)山門
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2.西口の山門
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3.手水舎
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4.石段から本堂を見る!
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5.本堂を斜めに見る!
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6.薬師堂(平安時代に遊女江口の君(えぐちのきみ)によって再興され、ここに祀られています。)
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7.大東市内を展望する!
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8.鐘楼
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9.野崎参りの歌碑
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10.近松門左衛門の浄瑠璃ででるお染め久松の塚
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