2013/6/23

畿内の文化財・史址を見る!26.珍しい国宝の楼門を持つ般若寺!  文化財研修記

 般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られている。
 般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。
 般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。寺伝では舒明天皇元年(629)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいわれている。鎌倉時代の文永4年(1267)、当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」とする説を採用している。しかし、観賢(854−925)が関与した「般若寺」は山城国(今の京都市右京区鳴滝般若寺町)にあった寺であり、上記の説は同名別寺院を混同したものである。この、観賢再興説が誤りであるという点は、すでに江戸時代・享保20年(1735)刊の『奈良坊目拙解』(村井古道著)で指摘されている。
その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。
廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253)頃までに完成した。その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには「北山十八間戸」(国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要したという。

1.国宝楼門の駒札
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2.般若寺楼門(国宝、鎌倉再興伽藍の回廊で和様に天竺様式を取り入れ、美しく軽快な屋根のそりを見せる。楼門遺構では日本最古作例です。)
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3.楼門を通して国重文の十三重石塔が見える!
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4.地蔵像群
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5.西国33ヶ寺観音像
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6.中興上人良恵供養塔(建長5年(1253)国重文の十三重石塔を創建)
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7.国宝楼門を内側から見る!
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8.向井去来の歌碑(江戸時代前期俳諧師)この寺には各所に歌碑がある。
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9.相輪(十三重石塔のまえにはこの相輪が建てられる。)
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10.国重文の十三重石塔
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11.境内と本堂
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12.十三重石塔(国重文、高さ約14.2メートル、左の本堂前の石灯篭は般若寺形又は文殊形と云われ各部に獅子、牡丹、鳳凰などの装飾があります。写真失敗でした。)
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13.本堂(奈良県指定文化財)
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14.国重文の一切経蔵(鎌倉時代)
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