2013/4/24

春の京の文化財・史址を見る!9.最澄の直弟子の円仁が建立し、良忍が再建した魚山声明の「来迎院」!  文化財研修記

 来迎院(らいごういん)は、仁寿年間(851〜854)、比叡山に天台仏教を開いた伝教大師最澄の直弟子である慈覚大師円仁(794〜864)によって中国からもたらされた声明(しょうみょう)の修練道場。円仁 (えんにん)は唐(中国)の五台山(山西省)の支峰の一つの魚山(ぎょざん)で14間の仏教修学のうえ帰国、比叡山で密教や声明などを伝えたが、後に衰退する。寺の山号となっている魚山は、中国の声明の聖地・魚山(ぎょざん)の名に因んでいる。声明とは、インドが起源で仏教の発生とともに始められ梵唱とも言われる。寺院で行われる法要儀式で経文に音曲をつけて歌詠するもので、仏教儀式音楽。後の邦楽(浄瑠璃・謡曲・民謡など)に強く影響を与えたとされている。現在では天台声明と真言声明が主となっている。
 天仁2年(1109)、融通念仏の開祖・聖応大師良忍(りょうにん)が叡山東塔・阿弥陀房の堂僧を離れ再興した。良忍上人は、円仁が伝えた声明を統一し“魚山声明”とした とされ、後に魚山流が天台声明の主流となる。天仁時代、大原は比叡を離れた念仏修業僧の隠棲の里となっていて、長和2年(1012)、大原入道寂源(じゃくげん)がこの寺から北へ1kmほどの所に勝林院を建立している。平安末期の大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心にとして49もの坊が集落化する別所となり、盛時には法儀声明を修業する僧侶や貴族が数多く集まり、声明のこだまする里として隆盛 している。別所は、魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)と総称するようになり、比叡山は保元1年1156)、梶井政所(現三千院)を設置し魚山大原寺の統括を図ったとされている。
 盛時の来迎院は、多数の堂塔伽藍があったが、応永33年(1426)の火災で焼失。再建されたがまたもや罹災。天文年間(1532〜55)に再建された本堂が現在の建物である。

1.三千院を出て来迎寺に登る角には案内の碑がある!
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2.その右側には「一福茶屋」食事処、お店がある
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3.1,050円のそば定食はお徳で美味であった!
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4.お茶の器も中々のものだった!お薦めです。
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5.三千院の開かずの朱雀門を左手に参道を登って行く!
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6.左手に蓮華華院があるが入山は禁止だ!
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7.来迎院本坊への入口
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8.来迎院山門
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9.京都市指定需要文化財の鐘楼(藤原国次作、室町時代の永享2年(1431))
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10.本堂(室町時代後期の天文2年(1534)再建のものです。
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11.本堂内陣の見事な仏像郡(国重文の薬師如来、釈迦如来(中)、弥陀如来)脇侍左、不動明王、右は毘沙門天(両方とも藤原時代後期作)前卓は牡丹唐草透かし彫り(鎌倉時代初期のもの)
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12.同上を斜めから見る!
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13.獅子飛石(鎌倉時代)
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14.地蔵堂(鎌倉時代など)
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15.聖応大師良忍上人廟への参道
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16.御廟
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17.国重文の聖応大師良忍上人三重石塔
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18.良忍上人絵伝の一部
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