2013/1/31

飛騨・信濃の文化財史址を見る!42.徳川秀忠軍3万8千名を翻弄した上田城!  文化財研修記

 上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築城された城で、上田盆地のほぼ中央の千曲川の尼ヶ淵(あまがふち)河岸段丘上の平地に築かれた平城です。天正13年(1585)には徳川家康に帰順していた真田昌幸が沼田領を廻り徳川家と対立し7千名の兵を迎え撃つに至りました(第1次上田合戦)。昌幸は次男信繁(幸村)を春日山城に人質として送り上杉謙信の援助を請うと、遊撃部隊として真田信之を戸石城に置き、後詰として上杉援兵と矢沢頼康が布陣、上田城には昌幸が入り総勢1千2百人の兵(武装農民を加えると3千人位の兵力だったとされています。)を領内に展開させました。徳川軍は鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世などの譜代諸将と徳川家に従う武田の遺臣、まず信之が上田城下まで誘き寄せ、城を守る前衛部隊が徳川軍と交戦、時を見計らい城まで一旦引き下がると誘き寄せられた徳川軍が上田城に一気になだれ込み、それを見た昌幸は城から一斉に矢玉を浴びせ撃退、敗走する徳川軍の背後を信之の軍が襲い、後詰の上杉軍が追撃、神川まで敗走した徳川軍の死者は1300人にのぼり、真田軍は僅か40人という大勝利だったと言われています。この事により真田家と上田城の名声は全国に広まったとされ、真田昌幸と徳川家康の遺恨が生まれました。慶長5年(1600)、真田家は本多忠勝の娘で徳川家康の養女を正室とした信之が東軍に組みし、石田三成の盟友である大谷吉継の娘を正室とした幸村、昌幸が西軍側に付き関が原の合戦を迎えます。徳川秀忠率いる東軍3万8千名の兵が中山道を進軍し、真田昌幸、幸村3千名の兵が上田城で迎え撃つという第2次上田合戦が行われました。当初から秀忠軍の足止めを目的とした戦いだったとされ、一旦降伏を受け入れるように見せかけて時間を稼ぎ、挑発することで徳川軍を上田城に誘き寄せ、手薄になった秀忠本陣を伏兵に急襲させる事で徳川軍を大混乱に陥れました。秀忠は上田城の攻略を諦め中山道を西上するも関ヶ原の戦いに間に合わず家康から叱責されましたが結局東軍の勝利となり真田昌幸、幸村は九度山に配流され上田城は廃城となり破棄されました。元和2年(1616)信之が上田藩主となりましたが元和8年(1622)には松代城へ移封された為、上田城の整備が出来ず替わって藩主となった仙石忠政が現在見られる近代城郭へ大改修しています。明治維新後に上田城は廃城となり多く建物が破却や民間に払い下げとなり城内には2重櫓が一基残るのみでしたが、近年になり払い下げられた2基の2重櫓を再移築し東虎口櫓門と袖塀が復元されています。現在は上田城公園として整備され国指定史跡(3基の櫓は長野県県宝)に指定され、日本100名城にも選定されています。

1.上田城とその城下町図
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2.駐車場から尼ヶ淵(あまがふち)河岸段丘の西隅櫓を見る!
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3.同上 北隅櫓
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4.上田城跡図
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5.下記をクリックして、「音声付動画で」一部は石垣積ですが物凄い尼ヶ淵河岸段丘を西隅櫓から北隅櫓を見て下さい。
http://youtu.be/RLTadtnosMg


6.尼ヶ淵河岸段丘から西隅櫓に向って登る!
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7.堀の水の説明
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8.同上
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9.城跡公園内の真田神社
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10.同上
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11.南櫓と櫓門
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12.同上 正面
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13.真田石の説明板
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14.下記をクリックして、「音声付動画」で上田城内を見て下さい!
http://youtu.be/7MOStWee3PI

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