2012/9/15

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第11回鶴岡八幡宮の白旗神社と源頼朝のお墓!!  文化財研修記

鶴岡八幡宮を訪れたのは丁度7月7日で「七夕祭」の飾りつけが太鼓橋にあった。この鶴岡八幡宮は源頼義公「みあもとのよりよし、河内源氏の棟梁」が勧請した由比の若宮を、治承4年(1180)に源頼朝公が現在の地に移したが、建久元年(1190)に火災で焼失したため、裏山(現在の上宮の位置)に改めて、京都の源氏の神社と云われる岩清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。鎌倉幕府2代将軍源頼家公も白旗神社や新宮を造営した。鶴岡八幡宮は、幕府の祈祷(きとう)の中心をはたした。また、源頼朝公が長年待ち望んだ征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)をはじめ、2代将軍源頼家公も、3代将軍源実朝公も叙位任官の祭には、本来なら京都の内裏(だいり)で行われる拝賀の儀式のすべてを、この鶴岡八幡宮ですませていることから、内裏(だいり)としての機能をも併せ持ったと考えられている。また、武家政権を保障する神として、政権担当者により代々修造が行われて来た。三ノ鳥居を潜ると国史跡の境内に入り源平池に至る。国重要文化財の下宮(若宮神社)、上宮(楼門、拝殿、本殿を見学しましたので、第2代鎌倉将軍源頼家が建立の白旗神社を見て見ましょう!
白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮、勝長寿院と並ぶ崇敬を集めた。宝治元年(1247)6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。明治維新に白旗神社と改められた。神社奥の山上には源頼朝の墓がある

1.史跡鶴岡八幡宮の境内社の白旗神社
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2.同上2.(実際の源頼朝のお墓を守る白旗神社はここから数百メートルも東にあります。)
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3.鎌倉国宝館前を通って白旗神社へ向います!
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4.更に東へ向かいます!
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5.白旗神社前の駒札にようやく到着
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6.源頼朝顯彰碑
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7.白旗神社駒札
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8.白旗神社1.
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9.同上 2.
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10.法華堂跡へ登る急な石段
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11.源頼朝公法華堂顕彰碑
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12.源頼朝公の墓(五輪塔)
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13.同上 アップ
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