2012/8/2

綾部人の見た美濃の文化財・史址!48.明智光秀出生の明智長山城址!  文化財研修記

岐阜県恵那市明智町にも明智城址があるが、筆者はこの岐阜県可児市瀬田地内にある美濃明智長山城址を明智光秀出生の城と思慮しています。明智城はその名の通り東西に長々1,200メートルにも及ぶ長い山城で長山城とも呼ばれていた。
この山城を築いた土岐氏は源頼光の攝津源氏の出であり、大本は清和天皇にありますが、初めて武士団を形成したのは、天皇の孫にあたる満仲であったと云われています。
その満仲の長子である源頼光が、父の摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を継ぎ、摂津源氏の祖となりました。そして次男の源頼親が大和源氏の祖となり、三男の源頼信が河内源氏の祖となりました。
 この美濃源氏の土岐氏は鎌倉・室町時代はとても有力であり、大動脈の東山道が通る穀倉地帯の美濃を所領し、その中心地は都に近い西美濃でした。康永元年(1342)鎌倉初期の守護・土岐頼康は弟の頼兼に東美濃方面の統治の要として、可児郡明智荘を治めさせ、長山城を築かせました。この頼兼が「明智氏」を名乗り明智一族が誕生しました。家紋は代々土岐家と同じ「水色桔梗」で土岐家の有事の際にはこの旗を揚げて守護土岐家に忠誠を尽くしました。
 戦国時代、美濃を奪取した斉藤道三は、美濃の懐柔策として、明智城主の明智光継の娘を正室として迎えた。この正室小見の方が生んだ娘が織田信長の正室濃姫で、明智光秀は光継の孫で濃姫とは従兄弟同士になる。余談ですが、明智氏は代々美人が多く従兄弟の濃姫も美人で娘の細川ガラシャも美人であったとのことです。
 弘治2年(1556)斉藤道三が息子義龍に討たれ、義龍は道三に味方した明智一族を討つべく関城主長井道利を大将に大軍で攻め、2日間の攻防で明智一族は滅び、光秀のみ城を落ち延び後日、明智家を再興しました。

1.自家用車で住宅団地を登り、明智長山城址へ。
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2.標高178メートルの山頂近くには数台の自家用車が駐車でき、後ろにトイレもあります。
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3.明智城址散策マップ
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4.本丸へ100メートルの標識
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5.1800万年前は日本列島と朝鮮半島が陸族続きであった碑
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6.二の丸址碑(この山城ではまだ石垣作り等は出来ていず、土塁作りです。)
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7.七ツ塚碑
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8.七ツ塚(斎藤義龍に討たれた7名の武将を祀る塚です。)
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9.本丸址碑(この山城はいざという時のため築かれたもので、城主や家臣団は、普段は城の北麓の天子屋敷・大屋敷・都一等の名の名残があった所に住んでいました。)
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10.明智城碑
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11.同上 古い碑
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12.明智城駒札
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13.明智城展望デッキ
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14.展望デッキからの眺望 1.
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16.馬防柵
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17.西の丸址
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18.搦手曲輪(郭)
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19.徒歩での明智城址入口
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