2012/7/20

綾部人の見た美濃の文化財・史址!43.郡上八幡城とその変遷!  文化財研修記

 今回は郡上八幡町にある八幡城を訪ねます。鎌倉幕府より承久3年(1221)に下総国(千葉県)香取東庄の千葉氏支流の東胤行(とうのたねゆき)がこの地の山田庄を受領し、郡上東家(ぐじょうとうのけ)の初代となった。7代益之が応永16年(1409)に赤谷山に城を築く。応仁2年(1468)9代城主東常縁(とうのつねより)が東征の留守に土岐家の守護代斉藤妙椿(さいとうみょうちん)に篠脇城(大和町牧)と所領を奪われるが、和歌を良く読む東常縁は、和歌を詠み、はかない世の移り変わりを悲しんだ。この歌に深く心を打たれた妙椿は和歌10首を請い返歌とともに所領を文明元年(1469)に返した。
 文明3年(1471)飯尾宗祇が郡上に入り、東常縁より古今伝授を受けた。天文年間(1532〜54)第13代常慶は東殿山城を築く。弘治3年(1557)山内一豊の妻になる千代が後に初代八幡城主となる遠藤盛数の娘として生まれる。永禄2年(1559)遠藤盛数の兄、遠藤胤縁(えんどうたねより)が東常尭(とうのつねたか)によって殺害され、仇討ちで東殿山城の東常尭を攻撃して滅ぼした。これで承久以来12代340年も続いた東氏は滅びた。
 遠藤盛数は八幡城を築き、郡上一円を支配したが、その所領の半分を遠藤胤縁の子・胤俊に継がせた。永禄5年(1562)遠藤盛数は死亡し、その子・慶隆が13歳で後を継ぎ2代目となった。永禄6年(1563)慶隆を守るため母は千代を連れて、関城主永井隼人と再婚する。永禄7年春(1564)2代目城主慶隆が岐阜に滞在中に、胤俊が反乱を起こし、八幡城を奪い取ったが、慶隆と弟・慶胤は母の嫁ぎ先の関城主永井隼人の助けをかり八幡城を奪い返した。天正16年(1588)慶隆は岐阜城主織田信孝に通じたため、豊臣秀吉に疎まれ、加茂郡に7千5百石で移され、八幡城は稲葉一鉄の子・貞通が4万石で封ゼられた。貞通は八幡城の大改修を行い、旧態を一変させた。
 慶長5年(1600)遠藤慶隆は徳川家康に願い出て、飛騨の金森可重の援軍を受け、激戦の上、和睦となったが、同年の関ヶ原合戦では慶隆は東軍の遊軍で活躍して、11月に慶隆は再び第4代八幡城2万7千石の城主となった。以降、8代まで続いたが、その後、井上家が2代、金森家が2代、そして、宝暦8年(1758)丹後国宮津城主・譜代大名の青山大和守大膳亮幸道(あおやま、やまとのかみ、だいせんのすけ、よしみち)が4万8千石の城主となり代19代幸宣(ゆきよし)の明治維新まで7代111年間続いた。

1.厳しい穴太積(あのうずみ)の石垣の城を登る
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2.同上
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3.力石「寛文7年(1667)6代城主遠藤常友公の時、八幡城を大修理した際、土民に吉田川の川原から運ばせた2個の石、重さ350Kg、長さ1メートル、幅30センチもある。公が褒め称えたら忽ち喜び死亡したと云う。」
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4.天主閣を見る
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5.見事な天主と隅櫓
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6.八幡城の沿革(海抜353.95メートル)
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7.隅櫓と天主表門
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8.天主閣
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9.土霊水(天主閣の裏側にある)
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10.天主閣 内部1.
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11.同上 内部2.
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12.同上 内部3.2代目城主遠藤慶隆公画像と使用した武具
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13.八幡城と街の模型
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14.天主 内部 4.金森氏時代の宝暦騒動の内容
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15.下記をクリックして、音声付動画で郡上の城下町の風景を見て下さい。U-tubeの画面が出たら、更にその右下の大画面をクリックして見て下さい。勿論無料です!吉田川の対岸の山の赤谷城跡や東殿山城跡も見えるでしょう!

1.第1場:http://youtu.be/wn46BwuNAj4
2.第2場:http://youtu.be/haABhw8JOx8

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