2012/3/27

伊豆・遠州の文化財・史址を見る!14.鎌倉二代将軍源頼家幽閉の地・修禅寺!  文化財研修記

浄蓮の滝から更に沼津方面に向って国道414号線を北上約10キロで鎌倉二代将軍源頼家幽閉の地、修善寺温泉に至る。
 修禅寺は大同2年(807)弘法大師空海に創建された真言宗の寺院でした。その後、「修禅寺縁起」によると道路を隔てた桂川の川岸に「独鉆(どっこ)の湯」と呼ばれる空海ゆかりの温泉があります。建治年間(1275〜78)に、鎌倉から蘭渓道隆(らんけいりゅうどう)が来住し、臨済宗に改宗、延徳元年(1489)更に韮山城主北条早雲と曹洞宗の開祖・道元禅師により曹洞宗となりました。本堂には国重文の木造大日如来坐像、宝物館には県文化財指定の刺繍釈迦三尊幅等があります。
 さて、修禅寺の裏山には源頼朝の庶弟・蒲冠者(かばのかんじゃ)源範縒頼の墓や桂川を渡っていくと鎌倉二代源頼家のお墓があります。
 誠に残念ながら、今日は此の後、三島大社、浜松市へ行くため時間が無く、次回の伊豆史跡めぐりに残します。

 一応、下記に源頼家の修善寺滞在の様子と当時の情勢を記します。
頼家は鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で、母は北条政子。父頼朝の急死により18歳で家督を相続。従来の習慣を無視した頼家の独裁的判断が御家人たちの反発を招き、母方の北条氏を中心とした十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。
 そうした状況の中で頼家が急病にかかり危篤状態に陥ると、まだ存命しているにもかかわらず『頼家が病死したので弟の実朝が後を継いだ』との報告が都に送られ、鎌倉では、頼家の乳母父で長男一幡(いちまん)の外祖父(頼家の側室・若狭局の父)である比企能員(ひきよしかず)が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされる。
 一人残された頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、北条時政の討伐を命ずるが従う者はなく頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、入浴中のところを北条氏の手によって暗殺される。享年23(満21歳没)。頼家に代わって実朝が将軍職につくと、北条時政が幕府の実権を握ることになる。それから15年後の1219年、鶴岡八幡宮において、頼家の子公暁(くぎょう)に実朝が襲われ落命すると、実朝に子がなかったため、源氏の将軍は実朝で絶えました。

1.修善寺温泉ガイド
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2.修禅寺参道と山門
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3.見事な山門
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4.見事な手水舎
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5.百度石(同一の寺の百度参り)
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6.見事なつぶのそろった「玉石積」の鐘楼
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7.境内風景
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8.境内と修禅寺本堂
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9.見事な本堂正面
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10.見事な本堂内の須弥壇(仏壇)
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11.境内の修禅寺寒桜(初春には見事な花を咲かせるそうです。)
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12.宝物館入口
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13.源頼家肖像
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14.弘法大師御使用の青磁香炉
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15.弘法大師取用水瓶
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