2011/12/23

東近江の文化財・史址を見る!11.国特別史跡・安土城址と總見寺1.  文化財研修記

安土城は、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあった標高199メートルにあった山城である。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
天正5年(1576) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始した。天正7年(157955月、完成した天守に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。天正10年(1582) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により横死した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の横死後、蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。山崎の戦いの後、明智秀満率いる明智軍の退却後、天主とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。
 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、天正13年(1585)をもって廃城されたと伝わっている。

1.駐車場は有料で500円、更に入場料500円を支払い「大手通」から安土山城址(標高199メートル)の峻険な石段を登る!
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2.直ぐ左手の土手の上に「西側上段部と竈(かまど)跡の碑」がある。
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3.更に「大手通」を登る!
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4.左側に羽柴秀吉邸宅跡の碑がある!(邸宅は3段であったのでしょう!)
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5.同上 邸宅跡
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6.「大手通」の反対側の右手には前田利家邸跡の虎口!
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7.同上 宅跡(此の頃はすっかり、秀吉の妻・ねねと利家の妻・お松も仲が良く、大手通りを挟んで両側に両家の邸宅跡ですね!)
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8.石段には各地から石を集め、足らないので「石仏」を多く石段に使っています。
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9.前田利家宅跡の更に上には現在の「總見寺」(元徳川家康邸跡と云われています。)があります。
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10.總見寺入口
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11.總見寺は臨済宗妙心寺派の寺で、遠景山「總見寺(そうけんじ)」と云い、安土城築城の天正4年(1576)信長公が他所より移築し安土城の西方の峰に身らの菩提寺にしたと伝えられている。天正10年(1582)の天主崩落の際にも焼け残ったが、安政元年(1854)11月16日の火災により本堂等ほとんど焼失した。今は基礎石のみ三重塔の北に残っている。その後、昭和7年仮本堂が徳川家康邸跡に建てられ現在に至っていおる。寺宝として、国重文指定の信長公所用の永楽銭を散らした銀象嵌(ぞうがん)の鉄鍔(まけしらずのつば)や信長公の陣羽織が伝わっている。
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12.總見寺の鐘楼
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13.現在の總見寺前から安土平野を見る!
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14.更に大手通を登ると左側に「今井夕庵宅跡」がある!今井夕庵は斎藤氏の滅亡後、織田信長に仕え右筆となる。秘書として信長そば近くに仕え、内政面だけではなく、外交面でも武田信玄、特に毛利家との友好関係のため小早川隆景、吉川元春らとの折衝にあたるなど、信長に重用され、活躍した。
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15.黒金門跡の説明板
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16.黒金門跡
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17.室町時代の仏足石!
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18.二の丸跡で織田信長公の本廟がある。
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19.織田信長公本廟(天主跡西下に織田信長公の本廟がある。重臣羽柴秀吉が天正11年(1583)1月三法師(信長公嫡孫)に年賀を表すべく登城し、翌2月信長公所縁の安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟とした。そして、6月2日の一周忌に織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。
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20.本丸跡説明板
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21.本丸跡!安土城天主から少し降りたところにある本丸御殿跡。「信長公記」によればこの建物に天皇を招きいれる「御幸の間」があったと記されている。その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の天皇の住居の清涼殿と酷似した構造になっていたことが判明、さらに礎石上の柱痕からこの建物は高床式であったこと、周囲の伝三の丸跡や天主取り付け台と渡り廊下で繋がっていたことが明らかになっている。  以降は次回で!
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