2011/6/19

奥琵琶湖(余呉湖)周辺の文化財を訪ねて!4.史蹟・賤ヶ岳合戦場に登る。  文化財研修記

賤ヶ岳(標高421.13メートル)は木之本町と余呉町の境界に位置する。平成3年3月近江鉄道によりリフトが完成し、約15分で山頂近くまで一挙に上がれるようになった。料金は往復で760円です。山頂に立つと、東に小谷山・伊吹山を望み、南に琵琶湖・竹生島、北に余呉湖を脚下に眺めることが出来る景勝の地で、1949(昭和24)年「新雪・賤ヶ岳の大観」として琵琶湖八景の一つに指定されている。賤ヶ岳東麓には越前(福井県)に通じる北国街道が南北に走っており、戦略的にも重要地点であった。天正11(1583)、織田信長の跡目をめぐって柴田勝家と羽柴秀吉の間で賤ヶ岳合戦が展開された。賤ヶ岳の山頂には秀吉方丹羽長秀配下の桑山重晴と羽柴秀長配下の羽田正親砦が置かれ、一部土塁が残っている。天正11年雪解けまもない2月の末、柴田勝家は越前から兵を近江に進め、柳ヶ瀬(余呉町)を中心に布陣した。一時長期戦化の様相をみせていたが、秀吉は織田信孝を攻めるため美濃(岐阜県)に入っている間の4月20日、柴田勝家の甥・佐久間盛政が敵中に攻め入り、中川清秀の守備する大岩山(余呉町)攻略、清秀以下を憤死させたことから、本格的な戦闘となった。清秀の討死、大岩山陥落を聞いた秀吉は大垣から木之本まで13里(約50キロ余)を約5時間で取って返し、臨戦態勢に入った。このとき沿道住民はいっせいに松明を燃やし、ご飯を炊き込み秀吉方のため用意したと云う。翌21日午前9時頃から正午過ぎまで決戦が行なわれ、特に勝家方の柴田勝政が守っていた飯浦の切通しから川並までの余呉湖畔の戦闘は激しく、「賤ヶ岳七本槍」の活躍もこのときのことといわれる。七本槍とは、福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則の7人を云う。

1.駐車場からリフトへの登り道
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2.リフト乗場の横が賤ヶ岳(標高421.13メートル)の登山口となっている。
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3.リフト乗場での参加者
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4.リフト山頂駅から賤ヶ岳の頂上まで300メートル
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5.賤ヶ岳合戦没者戦霊地
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6.頂上、三等三角点「賤ヶ岳」421.13メートル
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7.史蹟賤ヶ岳七本槍古戦場から伊吹山方面を見る。
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8.休憩中の武者像
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9.眼下にみる余呉湖
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10.左側の奥琵琶湖
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11.真中の島は竹生島(島内には国宝の本殿を持つ都久夫須麻神社、国宝の唐門を持つ宝厳寺がある)
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12.山本山と琵琶湖を見る
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13.山頂にある巨大な「賤ヶ岳合戦」案内板
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