2019/7/15

丹後を見る!環境省巨樹古木DBで幹周4.45メートル、樹高27メートルのケヤキのある鹿原神社!  文化財研修記

京都府舞鶴市鹿原164には環境省巨樹古木DBでは幹周4.45メートル、樹高27メートルもある「前頭(まえがしら)ケヤキ」と呼ばれる巨樹で古木のある鹿原神社(かはらじんじゃ)がる。ケヤキは舞鶴市の「市の木」になっており、大きいものから横綱ケヤキ・大関ケヤキ・関脇ケヤキ・小結ケヤキ・前頭ケヤキと名付けられています。鹿原神社については創始など詳細が不明ですが、荒神様と山神社を祀っています。

1.鹿Ñ原神社の大鳥居と扁額
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2.巨大な自然石の常夜灯
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3.巨大な古木のケヤキに挟まれている鹿原神社の二神(山の神と荒神様)を祀っている!
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4.境内社(祭神は不明)
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5.角度を変えて見る!
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6.同上
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7.同上 巨樹を仰ぎ見る!
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8.前頭ケヤキ
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2019/7/11

丹後を見る!舞鶴市小倉の古社で郷社である阿良須神社!  文化財研修記

京都府舞鶴市小倉(国道27号沿い)には「正一位一宮神社」「豊受皇阿良須神社」を祀る郷社・阿良須神社(あらすじんじゃ)がある。秋の10月の祭礼日には、美少女たちは舞を奉納する。「天女の舞」「あめつちの舞」というのだそうである。崇神天皇の御代、丹波道主命が青葉山の土蜘蛛、陸耳御笠を征伐のさい加護をうけた天神地祇を柳原の森にまつったのを起源としている。天武天皇の10年(681)社殿が再建され、壬申の乱の英雄、高市皇子がお詣りされたという伝えもある。という。祭礼日には庚申太鼓と囃子方も練り込む。
中近世では、一宮・一ノ宮大明神あるいは大森社と称していた。志楽庄春部村の村自治の中心となる一宮であったと思われる。官の息のかからない宮座を中心とした村の神社という性格が強いように思われる。したがって祭神も本来は村の先祖神と思われる。アラスとかフルとかシラクとか古代の渡来名が残る地であり、それだけでなく青葉山土蜘蛛や陸耳御笠の伝説を伝えることから、だいたいの祭神像は浮かび上がってきそうであるが、それらは世が下るとともに次第に消されていったのだと思慮される。

1.郷社阿良須神社の標柱と大鳥居
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2.大鳥居と扁額
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3.阿良須神社の右側の鳥居は境内社の「冨留山神」である。
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4.阿良須神社の拝殿を見る!
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5.拝殿の右上にある冨留山神社です!
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6.同上の前にある駒札
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7.阿良須神社の拝殿・右の手水舎と本殿屋根を見る!
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8.本殿横を見る!
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10.本殿後部と拝殿を見る!
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11.もう一度両神社の正面を見る!
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2019/7/7

丹後を見る!関西花の寺第3番霊場で国重文の三重塔(塔婆)のある金剛院!  文化財研修記

京都府舞鶴市鹿原595番地には真言宗東寺派で見事な国重要文化財の三重塔のある鹿原山・慈恩寺 金剛院(こんごういん)がある。丹後街道(国道27号線)から1kmに満たない距離ながら、金剛院のたたずまいは深山の中の“隠れ寺”といった趣。一帯は「金剛院京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている深い樹林だ。モミやシイ、カシ、カエデ、アカマツなどの木の間越しに本堂や三重塔が見え隠れする。 こんな閑寂な地に開山したのは、平安時代初期の平城天皇の第三皇子、高岳親王である。親王は皇位継承争いなどに巻き込まれ、世の無常を感じて仏門に入った。法名は眞如。弘法大師十大弟子の一人に列せられるが、天竺に向かう途中消息を絶ったという。平安中期から後期にかけては、白河天皇や鳥羽天皇の皇后美福門院の帰依により大いに栄えた。その後の戦国動乱や天災人災にも耐え、守り抜かれた宝物殿の寺宝の数々が、この寺の隆盛ぶりを今に伝える。平安時代後期の阿弥陀仏如来坐像、多聞天立像、増長天立像、さらに鎌倉時代の快慶による力強い深沙大将立像、執金剛神立像。いずれも国の重要文化財である。鹿原川を渡って山門をくぐると本坊、田辺城主の細川幽斎作庭の鶴亀の庭、そして宝物殿がある。そこから三重塔と本堂への参道は、木々に覆われた昼なお暗い道だ。高岳親王御手植えと伝わる千年ガヤは府内随一の巨木となり、無数のカエデが頭上に枝を伸ばす。室町時代再建の三重塔はまるで自然に還ったかのような落ち着いた色調で樹林と見事な調和を見ている。 5月になればオオデマリが周囲を灯すように咲き、本堂への急な石段の左右はシャガが隙間なく埋め尽くす。そして夏の木立の下には薄緑色のウバユリや楚々とした山野草の花々がひっそりと咲く。さらに9月はシュウカイドウが参道に花色を添える。また、枯れ滝への200mの山道は桜の季節、ヤブツバキが延々と咲き連なり、“ツバキの小径”となる。「丹後のもみじ寺」金剛院さて、金剛院は何といっても紅葉で広く知られる。三重塔から本堂にかけてのカエデは細川幽斎の植樹で、全山合わせて5000本を数えるという。それらが黄赤や緋色などに染まり、三重塔に照り映える美しさは例えようもない。門前に広がる鹿原公園から見れば、まさしく一幅の絵画だ。
 紅葉時の混雑を避け、若葉が萌える春から初夏、三重塔の屋根が白銀に輝く雪の日などに訪れるのも一興だ。静けさの中にたたずむ金剛院はじつに風雅である。記事から抜粋掲載。
住所: 京都府舞鶴市字鹿原595
0773-62-1180、真言宗東寺派、本尊は波切不動明王、拝観は9〜16時、拝観300円、宝物殿500円
第4回目の訪問で本堂の木鼻には定番の唐獅子と象、中央に龍とその上に二人の天女が舞を舞い、
唐破風には翼を広げた鳳凰が飛翔しています。彫師は刻銘より6代目中井権次正貞と認識した。。

1.駐車場から山門を見る!
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2.景観案内(画像をクリックすろと拡大して読めます。)
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3.山門を潜ろと其処は細川幽斎作庭の「鶴亀の庭」の庭です!
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4.300円を投入し、パンフレットを取り,本堂や三重塔で向かう!無数のカエデが頭上に蔽う参道を通ります!
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5.途中、左側には京都府内随一の高岳親王のお手植と云われる千年ガヤに出会います。
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6.更に続くカエデの参道です!頭上の鹿原山を見上げる!
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7.国重要文化財の三重塔(塔婆、室町時代))を見る!
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8.104段の石段参道は厳しいので、登りは「いろは坂」の道を登った!
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9.いろは坂も途中から石段参道へ入り、見上げると本堂が見えた!
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10.石段参道の途中から三重塔を見下ろす!
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11.石段参道の途中からお堂を見上げる!清水寺の斜面の建て方と同じ様式だ!
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12.本堂を右側から見る!
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13.本堂の木鼻には見事な龍の彫刻がある!定番の唐獅子と象、中央に龍とその上に二人の天女が舞を舞い、唐破風には翼を広げた鳳凰が飛翔しています。彫師は刻銘より6代目中井権次正貞と認識した。
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14.本堂銅鑼をアップで見る!
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15.木鼻を内側から見る!
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16.本堂内
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17.関西花の寺第3番札所霊場
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18.弘法大師の滝
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19.104段の石段参道を降り、三重塔を見て再びカエデのトンネルを潜り山門へ
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20.山門内側の駒札
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2019/7/4

京丹波を見る!綾部のアジサイ寺とも呼ばれる東光院の風鈴まつり!  綾部の文化財

京都府綾部市上延町の寺院・東光院で「綾部あじさい風鈴祭り」が開かれ、本堂前につるされた700個の風鈴が涼味を誘っている。風鈴は直径7センチほど。本堂前にやぐらを設け、つるした。アジサイは今月初旬から薄紫や白の花を咲かせ始め、約2500株が見頃を迎えた。そよ風が吹くと、境内一帯に涼やかな風鈴の音が響き、参拝客がアジサイとの共演を楽しんでいる。 アジサイは来月初旬ごろまで、風鈴は9月4日まで楽しめる。松井真海(しんかい)住職(60)は「庫裏で冷茶の接待もあるので、ゆっくり過ごして涼んでほしい」と話している。拝観料は高校生以上300円でお茶のサービスもある。東光院の由縁は東光院は、高野山真言宗に所属する古刹で、菅谷山法隆寺東光院と号し、本尊は薬師如来をまつる。寺伝によると天武天皇の白鳳二年(673)理趣仙人によって開創され、七堂伽藍を備えた寺院であった。寛弘二年(1005)聖楽上人が中興し、坊舎二十一坊を備えて隆昌したが、応仁の乱につづく延徳の兵乱(位田の乱)の兵火で焼失し、更に明暦年間にも火災にあって炎上した。 当寺に残されている大般若経は、平安時代から室町時代に書写された、大般若経の残巻で約三十巻あり、最古のものは、仁平二年(1152)奥書があり、又他にも志万庄法隆寺(巻第五〇)奥書のあるものもあって、当時は法隆寺と呼んでいたことがわかる。この写経は、丹波における平安時代の写経事業を伝える数少ない遺巻であり貴重である。又、経櫃懸子は、杉板製漆塗で、長方形、底は浅板張りで、内面と底面に漆書、墨書があって延徳二年(1490)頃の位田の乱に岡町木曾殿神社の焼失の事が記録されている。

1.参道の横にアジサイが満開(令和元年6月18日撮影)
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2.見事なに二王門!
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3.二王門をアップで見る!
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4.阿形の仁王像
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5.吽形の仁王像
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6.参道両側は見事なアジサイが満開です!
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7.小川のアジサイを見る!
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8.十六羅漢の池
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9.見事なピンクの水連と!
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10.東光院を見上げる!
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11.本堂を見上げる!
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12.700個の風鈴と本堂を望む!
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13.庫裡の受付
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14.拝観料300円でお茶菓子とお茶がサービスです!
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15.庫裡の中の襖絵!(長井一禾の四季の鴉(襖絵)
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16.庫裡に祀られている仏像!
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17.見事な本堂の須弥壇です!
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18.庫裡の前の案内札
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19.風鈴の原型です!(寺の屋根に飾られていた物です!魔除!)
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20.庫裡の次間に飾られていた「地獄絵の襖絵」
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2019/6/29

京丹波を見る!関西花の寺霊場第一番札所で丹波あじさい寺とも呼ばれる観音寺!  文化財研修記

京都府福知山市観音寺1067には関西花の寺霊場第一番札所で丹波あじさい寺・水子供養寺ともよばれる真言宗観音寺(かんのんじ)がある。本尊は千手観音で寺伝に依れば養老4年(720)にインドの帰化僧、法道仙人によって一霊木から十一面千手千眼観世音菩薩像を刻んで草堂に安置されたのが当山の開基。本堂は丹波を代表する密教建築。(府指定文化財)約1万株のあじさいが咲く「あじさい寺」として有名。せせらぎの流れる境内は新緑や紅葉もみごと。冬のロウバイも魅力的です。また、この寺は応和元年(961)に空也上人が再興したという。平安時代末期には塔頭・子院が十余を超え鎌倉時代は執権。北条氏、室町時代には足利氏や丹波守護細川氏の庇護を受け栄えた。しかし明智光秀の丹波征伐の時反抗して仁王門を残して全山ý焼かれてしまったが、3年後にはさ再建された。仁王門は明治29年に倒壊したので昭和6年鎌倉様式で再建された。

1.車参道のアジサイ(令和元年6月12日撮影)
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2.全山の参拝図
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3.仁王門
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4.仁王門をアップで見る!
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5.両脇のアジサイを」楽しみながら大聖院角に至る!
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6.見事な手水鉢
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7.大聖院
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8.大聖院で祀られている千手観音像を襖越しに撮影!
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9.アップで拝観!
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10.大聖院横のアジサイの丘を見る!
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11.大聖院横のガラス張りの雨戸に写る見事な「アジサイの花」
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12.七観音霊場めぐりで丘から大聖院を見下ろす!
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13.七観音霊場の一つ
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14.本堂を見る!
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15.水子観音堂内の水子地蔵様を拝観する!
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16.見事な本堂を右手から見る!
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17.本堂縁側から8体仏を見る!
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18.本堂縁側から鐘楼を見る!
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19.御神木は巨大な古木のスギです。
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2019/6/26

京丹波を見る!福知山市の延喜式内社で丹波国造丹波氏の祖先・天照国照彦火明命を祀る天照玉命神社!  文化財研修記

京都府福知山市今安には延喜式内社で丹波国造丹波氏の祖神・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこの命)を祀る天照玉命神社(あまてるたまのみことじんじゃ)がある。天照玉命神社の創建は不詳ですが垂仁天王45年(16)、倭姫命が勧請したのが始まりとされます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社で天田郡4座のうちの1座として古くから信仰されてきました。戦国時代に一時衰退しましたが江戸時代に入ると福知山藩主から崇敬庇護され、承応2年(1653)には松平忠房が社殿を造営しています。明治5年(1872)に郷社に列し、大正9年(1920)に現在の本殿を再建、校倉造の宝庫は享保14年(1729)に建てられたもので文化財的価値があるとされます。祭神は天照国照天彦火明命(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)。

1.巨大な鳥居
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2.標柱を見る!
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3.石造りの駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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4.手水舎
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5.拝殿を望む!
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6.阿形の狛犬
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7.吽形の狛犬
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8.見事な拝殿
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9.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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10.拝殿と後部の本殿を左側から見ます!
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11.本殿を左側から見る!
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12.本殿側面の破風を見ます!


13.御神木の駒札!
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14.見事なスギです!
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2019/6/23

京丹波を見る!桜満開の福知山城を見る!  文化財研修記

京都府福知山市内記、福知山市役所横には明智光秀公が丹波掃討の拠点地とし、多くの転用石(日本で一番多くの転用石を使って建てた城は大和郡山城です。)をもちいて城壁を築いた桜満開の福知山城を見ます!福知山城(ふくちやまじょう)は、日本の城(平山城)跡。江戸時代には福知山藩の居城であった。1965年10月14日、市の史跡に指定され2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップもされシンボリックである。また多数の桜が城周辺に植林されており、春には満開となる。小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となる。明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃して死去した。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に林半四郎らに川北周辺で討死した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。天正10年(1582)6月、本能寺の変となり明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に暗殺された。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけであった。福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させた。関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。はじめ6万石で入国したが間もなく(2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)の加増を受け8万石の大領主となった。山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在残る華麗な姿とした。しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封され、翌元和7年(1621年)8月岡部長盛が亀山城から移る。3年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通も福知山城の城主となった24年目の1648年(慶安元年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したのではないかと伝わっている。翌慶安2年(1649年)2月刈谷藩から松平忠房が入部したきた。20年程統治したが島原藩へ転封する。寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された。建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。二の丸の建物は1887年(明治20年)取り払われ、建物一部の瓦は寺院や民家に使用された。二の丸の台地は削り取られ、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、これらは福知山市重要資料に指定されている。最後に残っていた二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、1916年(大正5年)に天守台に移築された。1973年(昭和48年)には東京工業大学の藤岡通夫によって基本設計図が描かれて地質調査も行ったが、オイルショックの影響で天守の復元は中断された[2]。1982年(昭和57年)には塩見精太郎市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上されると、1984年(昭和59年)には再建(郷土資料館建設)期成会が発足した[2]。1口3000円の寄付を募る「瓦一枚運動」などで5億円以上の寄付金を集めた[2]。一般寄付金1億6000万円、国庫補助1億4000万円、京都府補助230万円などを合わせて、総事業費は8億1372万円。福知山市の一般財源にはほとんど頼っていない[2]。1985年(昭和60年)には小天守と続櫓が完成、1知山城は、明智光秀が築造後、その後多少の修築は行われたが、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていた。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。稲葉氏時代の絵図には、本丸と二ノ丸の間は「カラホリ」と「橋」を記している。この時代は本丸と二ノ丸は分断されていたと思われているが、稲葉氏時代の絵図以外には見られないので、それ以外は埋められたものと考えられている。二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われている。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。(ウイキぺデアから抜粋掲載)

1.福知山市役所前から見る!
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2.駐車場から見る福知山城!
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3.堀から太鼓橋と天守閣への登り道!右側の隅櫓は美術館です。
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4.太鼓橋から天守閣を見る!
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5.天守閣への登り道!秋の紅葉が散ると見事な紅葉の絨毯の登り道になります!
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6.入城案内(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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7.かなりの登り道です!秋の11月末には紅葉の絨毯道となります。
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8.桜が満開です!
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9.明智光秀公は家臣に命じて緊急の城壁造りのため多くの石仏などの転用石を用いて城壁を作ったのです。
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10.アップで転用石を用いた城壁を見ます。
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11.昭和61年に再建された天守閣を見上げる。
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12.築城後に余った転用石群(石仏、碑、墓石もあります。)
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13.転用石の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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14.銅門の駒札(同上)
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15.銅門
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16.銅門から見る桜!
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17.咲き誇る桜と隅櫓・天守閣を北から見る!
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18.同上
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19.二の丸から綾部方面を見る!
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20.今回は桜がメインです。他の福知山城は下記をクリックして見て下さい!
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2019/6/18

古都奈良を見る!国宝の本堂と薬師如来坐像,,十二神神将立像持つ新薬師寺!  文化財研修記

奈良市高畑町1352には国宝の本堂と木造薬師如来坐像、十二神将立像をもつ華厳宗(東大寺と同じ)の新薬師寺(しんやくしじ)がある。寺伝によれば天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように行基に建立させ、七仏薬師如来を安置したといわれています。かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院でしたが、現在は本堂〔国宝〕だけが残っています。東門・南門・鐘楼・地蔵堂はいずれも鎌倉時代の建造で重文に指定されています。また、境内全体に高畑独特の静かなムードがただよっています。本尊木造薬師如来坐像〔国宝〕とそれを囲む等身大の塑造十二神将立像〔国宝〕が有名です。

1.南門(鎌倉時代の四脚門、国重文)
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2.南門をアップで見る!
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3.鐘楼と中の梵鐘(鎌倉時代のもので国重文)
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4.鐘楼前から国宝の本堂を見る!
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5.地蔵堂(鎌倉時代、国重文)
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5.地蔵堂を正面から見る!
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6.国宝の本堂を正面から見る!
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7.国宝の本堂をアップで見る!(本堂内には見事な円形の土壇が築かれ国宝の薬師如来坐像や十二神将立像が安置されています。)」
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8.見事な蘇鉄と庫裡
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9.東門を望む!(国重文、平安時代末期のの楼門、南門より古く簡素な構造から当初は二脚門であったと推定されています)
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10.竜王社
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2019/6/15

古都奈良を見る!鏡j神社の別宮(摂社)で十市皇女を祀る比賣神社!  文化財研修記

奈良市高畑町には比賣塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられており、『日本書紀』の記載にある「天武天皇6年(67年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682)に氷上娘を「赤穂」の地に葬った」とされるこの二人ではないかと考えられている。1920年代に比賣塚は国有となって奈良財務局の管理下におかれたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から比賣塚の払い下げを受けたのを機に、そこに神社を造営することとなった。比賣塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、神殿・祭祀を鏡神社の摂社として委任することとした。1980年夏、新薬師寺・鏡神社の協力により地鎮祭が、同年末に上棟祭が行われた。1981年、十市皇女の命日である4月7日を新暦に換算した日である5月10日に鎮座奉祝祭が行われ、十市皇女を祀る比賣神社が誕生した。施設は社殿 - 高さ約2.5m、幅約2mほどの社殿が建てられている。社殿の正面1.55mぐらいのところに朱塗りの門があり、その門は閉ざされていてそこから中に入ることはできないようになっている。社殿に付いている鈴と、その門とがひもで結ばれており、参拝者は門前からそのひもを引いて鈴を鳴らすようになっている。神像石 - 社殿の正面向かって左側に、男女がむつまじく肩を寄せあっている像が彫られた高さ1.5mぐらいの石があり、その左に「神像石(かむかたいし)」という。良縁を願う人々の絵馬やそのほか、社殿の脇に絵馬を掛ける場所があり、良縁を願う人々の絵馬が多数掛かっている。その前には小さな石が置かれ、万葉集の「河の上の斎つ岩群に草むさず 常にもがもな常処女にて」という歌が彫られている。

1.比賣神社(比賣塚の上に建つ。)
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2.駒札
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3.掲示板(画像をクりっくすると拡大してよめます。)
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4.歌碑
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5.神像石の駒札
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6.神像石
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2019/6/12

古都奈良を見る!怨霊を鎮めると云われる藤原広嗣を祀る南都鏡神社!  文化財研修記

奈良市高畑町468には怨霊を鎮めると云われる藤原広嗣を祀る南都鏡神社!神社の歴史は古く、平安時代に入って間もない時期の大同6年(806)に隣接する新薬師寺の鎮守社として創建されたことに始まります。なお、創建にあたっては、現在の佐賀県唐津市にある「鏡神社」から奈良時代に謀反を起こしたとして処刑された藤原広嗣を御祭神として勧請を受けたものとされており、この神社は藤原広嗣の怨霊・御霊を鎮める神社としての役割を果たしてきました。藤原広嗣とはどんな人物か?さて、その「怨霊伝説」の由来となった藤原広嗣という人物ですが、彼は藤原不比等の三男である藤原宇合の息子として生まれた人物となっています。広嗣は天平9年(737)に天然痘の流行により「藤原四兄弟」として名をはせた宇合ら有力貴族が全員死亡する中で生き、その後反藤原氏勢力の台頭により左遷されるれる中、親族への誹謗を理由に大宰少弐に左遷される。天平12年(740)左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)が大宰府に拠って軍勢1万を集め反乱を起こしたが,鎮圧処刑された。所謂,皇族・橘諸兄などと藤原一族の勢力争いだった。

1.鏡神社の標柱と大鳥居
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2.本殿の駒札
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3.見事な舞殿
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4.神門から見る拝殿!
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5.見事な拝殿と本殿を見る!
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6.春日くずしの見事な本殿
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7.本殿の駒札
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8.イチイガシの駒札
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9.見事なイチイガシ
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10.もう一度本殿を正面から見ます!
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