2006/11/18

アガペー  日常たわごと君
 
今日のうさこ:雨の中を帰ってくると、うさこさんがお迎えしてくれました。クリックすると元のサイズで表示します顔を近づけますと、鼻に「おかえりのチュウ」をしてくれます。顔を向けるたびに、何回でもやってくれるので和みます(笑


それにしましても、日ごとに冷えてきてますね。酷寒に耐性がついてるはずのわしも、今日は手袋が恋しくなりました。そんな時に限って、手袋が片方しかないのです。おかしい、どこへ行ったのか?


と思って新しいのを買うたりすると、ひょっこり出て来たりするものです。手袋や靴下やスリッパというのは、どうもそういう仕掛けが組み込まれているようです(違w



さてさて



今朝の産經新聞に阿久悠さんのコラムが載ってましてね。なかなか興味深い内容でした。かいつまんで紹介しますと…


今の人は自分が好きだ。昔は不可能から教えられたものだが、今の人の考えは、根拠もなく可能性から出発しているように思える。夢には距離があることを教えられてない子は、ただ直結を望み、いきなり頂点を願う。そして、他人がもしそれを評価しないと猛然と反撃し、時には社会に仇なす行為を示しかねない


氏はこれを「自分を愛し過ぎると、他人を見ることを忘れ、社会の迷い子になる」とまとめています。うーむ、なるほど



補足するなら、こういう考え方は、なにも「今の人」だけではなく、昔から、少なくともわしらの世代からはありました。現在において、それが顕著になってきたのは同意できますが



ずいぶん前の「裏街道(PC版コラム)」にも書きましたが、可能性というのは「可能を保証するもの」ではなく、単に「100%不可能というわけではない」という意味でしかありません。1兆分の1という、現実にはほぼゼロに近いような成功確率であっても、それは「可能性がある」といわれるのです


よく「やってみなわかれへん!」と熱く語るヒトがいますが、それは、たとえば1兆分の1という途方もない数字を実感した上で言うてるのでしょうか?努力をバカにするつもりはありませんが、「やってみなわかれへん」なんてレベルを遥かに越える努力が、実現のためには必要なのですが?



自分よりスゴイ人なんか、どこにでもナンボでもいてます。才覚や能力の差も、ハッキリとあります。世の中は平等ではありません。自分を叩き落とそうとする人、親切顔して足を引っ張る人、そんな罠もぎょうさんあります


一方で、自分を応援してくれる人、好いてくれる人、やさしさやあたたかさに出会うこともあります。そういう人がいてくれるからこそ、今の自分があり、成功や達成というものがあります。自分という存在は、なんぼイキってみたところで、誰かの助けなしには生きていけません。しょせん今は小さな存在でしかないのだ…




というようなことを、身近な人達、あるいは社会の中でもまれながら、アタマを打ちながら、ちょっとずつ学んできてます。おかげで、すぐに結果を求めるようなことはなくなりました。ただ、目標までの途方も無い距離に挫折し続ける日々ですけども orz




そういったプロセスは、ある意味「当たり前のもの」でした。しかし現在では、どこかなし崩し的になってしまってて、シビアさを隠し、表面の砂糖菓子のような部分だけを見せようという傾向があるのかもしれません



アマやインディーズの音楽屋さんにも、その傾向は強くあります。音楽屋に自己愛はつきものやと思いますが、その度合いが強すぎるというか、才能を過信しているのか、たいした努力もせずに結果ばかり求めたがる人が多いです


「オレはオレなりにやってる」「それぞれのやり方がある」「音楽に善し悪しはない」等々、詰めると決まり文句が返ってきます。ま、批判されて反発したくなるのはわかります。そりゃもう、わしかてそうやもんね(笑


ただね、やってることでしか世の中は見てくれないんですよね。これ現実。安全なカゴの中でナンボ吠えたところで、納得してはもらえないのですよ。現実社会はキビシイものです



可能性はゼロに等しい、手持ちの能力もたかが知れてる、そういうトコロからスタートするのやと考えると、何をすべきか見えてくるでしょうし、自分のこともあらためてわかってくるかもしれません。実際にその感覚を理解したければ、シビアな環境に身を置いてやってみるのが一番です。友達相手の馴れ合いからは、そういう感覚は得られませんからね



というか



そういう感覚が必要と思われる方々には、なぜかこの話の根本的な部分が通じないです(笑。手袋の片方どころか、ココロの何かを失くしとるんとちゃいますか?どうもそう思えてなりません



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