昭和40(1965)年「川柳平安」1月号
虚勢張り合うて満員車も元旦 田中秀果
字が不得手らしい賀状のなつかしさ
一介の庶民を愛す燗徳利
妻の酌あすの歩調をみださない
人間の両手のばして2メートル
リベートの巷マラソン沈黙を溜めて 上田枯粒
マラソンの折り返しざくろ炸裂す
錠剤の銀紙マラソン坂あえぎつつ
観衆の尾を回るマラソンの吐き気
暦に得し安堵遠い日の戦 山本 礫
焚火の前でフロイトも現実も消える
鉄骨壮観あの辺の階段に飼われる
ほろびよと烈しく言いし夜はあり
タキシードのボクを描いて置くとする
日曜がなかったような十二月 乾ふたよ
友人へ車の癖を言うて貸す
悪いとこだけを数える妻も年
善人に嘘を言わせる骨を折り
てんぷらにおろしがつかぬ大根の値
一周忌を―
食事するてにをはが一つたりない 所ゆきら
洗濯する風呂を焚く缺けている
てにをはは母のもの子らにつながる
×
正月はSふぁんたあじがつづく
失いしものの重みは悔いでなし 溝口晏子
人倫は犯さず屋根のあるかぎり
恋炎失い愛と虚の岐路に
だれも踏みこめぬ不燃焼が詰まる
木目あざやかに恥辱の天井が真上
錆びた空気が出てくる十二月のラッパ 堀 豊次
資本家の指に消されてゆく童話
砂利道を父と子とゆくクリスマス
人妻の息白き駅くりすます
クリスマスケーキと帰る喜劇の父
「錆びた空気が―」は、豊次の川柳を語るとき欠かせない佳句。リアリズムの人だったと言うときに説得力をもつ。「砂利道」「息白き駅」などの感覚的な情景にも豊次らしさがあり、若いときから句会で揉まれてきた書き方の反映がある。
「かれんとこおなあ」 から引く
「森林」は短詩の専門誌という。創刊号には時実新子・堀豊次・草刈蒼之助・の現代川柳からの参加とある。川柳と短詩とは相違するという人もあろうが、短詩という世界から見て、俳句の金子兜太・津久井理一・野田誠の作品と並んで、鑑賞される作品と作家が川柳界にあることは以前には考えられなかったことである。(ゆ)
「俳句研究」10月号の川柳特集を見る。豊次作品は比較的新しい作品だが、枯粒・ゆきら・あきら・白史・陸平など、京都の作家の古い作品が散見される。そのころの作品と「川柳平安」に発表されている現在の作品を見ると、漸進しているのが豊次。ややわかりやすくなっているのが枯粒。自由律のかわらない白史。発言がむつかしくなったゆきらは、相かわらずの長舌である。あきらの現在の作品がどうなっているのか、見られないのが残念――。(ゆ)
(ゆ)はゆきらの略。同コーナーには「馬」(河野春三の個人誌)最終号が66名の自選作品を載せたことも報じている。当時、平安川柳社とその周辺に在った人達の自選作品を引いておく。
表紙の女 橋本白史
街は薫らない風吹くばかりの表紙の女
売れてゆく表紙の女の地下街である
口紅と自動車とで笑っている表紙の女
街路樹生れた色となる中に捨てられた表紙の女
表紙の女踏まれるばかり野犬の脚・脚
新古典派は詠う 大島無冠王
天地うすむらさきにして女起きぬ
ゆめを乱す狼藉者となるなかれ
風とともに嵯峨野夫人は匂う花
風とともに太秦むすめ颯爽と (太秦に、うずまさとルビ)
いなずまに影かさなりしまま動かず
高見順の心境の中に住むか
種を蒔くのみの権べとなり果つる
鎮座まします別格官幣大社とは孤独
川柳四十九年ああ遺す句はなし
人生端役 山本 礫
鉄骨の街ゆき端役人生斧もなし
ポリオの子犇めく街を削りゆく
貸車黒し自由を求めゴトゴト行く
牛の両眼に貧しさはないか
重い重い低唱が戯画となりゆく
敗北 渡辺義之
小さな黄金色の蜘蛛がぶらさがっている―ひとり
みんな偉くなってしまった 野道の石仏
精神病院のテレビの中で 指が五本あった
誰のでもない 私の言葉が天井にしみついてた
めしを食うふと女房を信ずべき
箱庭 岩村憲治
黒い掌の上しばらくは汽車と駈けても
持つは箸無意味な景色に変える眼欺す
首まで浸る放心の茶房も地階
窓のある絵を買うて来て眠られる
描く空の青なら子らへ絵具買う
地上のいのち 坂根寛哉
ひとつぶの麦は死なぬか定期券
マッチの火懐疑は日々に変容す
一矢あたためてある日を許せずに
文学の炎たしかに 眼をつむる
子を抱いて地上のいのち汲まんとす
備前憂愁 所ゆきら
因幡、美作、備前、裏から表へのバス
津山にて昼は 皆殺しの唄を聞きながら
港の三時の酒場の奧の珈琲は黒
四杯目の珈琲を前に 釣書の対話
海のない町から船の見える町に来た鼻
四分の一と四分の一和を二分の一が否定する
またの夕べをはるか紅衣の御身につづる
海が見える丘の寺に「良寛さま」の短詩
今日もまた急行は定時にさよなら備前麦秋
ははのいと 田中博造
窓ガラスに蝿狂いおり 喪の家族
多関節リーユマチの亡母へ線香の螺旋
亡母よカステラをつぶしてしまった
いつかは眉間に印す実印を彫る
忌明けの月から滴る ははのいと
新撰苑上位
玉砂利を踏んで人形劇はじまる 鶴本むねお
愛憎の破片群がり結晶す
わが城は火を吹く歓喜喪の女 定金冬二
喪の女カッとみている冬の冬
Z旗を否定少年鳩を飼う 長町一吠
道化服脱げばピエロは溶けてゆく
起重機の高さオールドミスである 徳永 操
行進曲が嘲っている夜更け
死を囃す読経階段は虚構 坪井枯川
純粋を拉致し柩車が街を出る
おごそかに偽装心中の繩つるす 白神英子
椰子の実をふれば人間を嗤う音
くす玉から黒い鱗が舞い落ちる 川村富造
おろおろ父の座から温みをさぐる
作者が冬二だから「冬の冬」だなどと軽い話題になった。在岡山の定金、長町、徳永、坪井、白神など、平安川柳社と岡山の好作家の交流が盛んになり始めた印象。
所ゆきらと堀豊次の対談がある。定型・多行形式・破調について語られている部分に、当時の平安川柳社や川柳界の様子が覗われて面白い。その冒頭部分を写しておきたい。
Y 一行と多行形式がある。それが柳誌に試みられ、発表されている現実を見て、多行形式が五七五であった場合、別に三行に書かなくても一行でいいと言う感じがする。そこで私は多行形式は破調だと感じる。すくなくとも破調的な屈折があるんではないか。
T 破調は、定形から破れたということ、そう規定しないと――。
Y 字余り的作品は破調ではない、と言えないことはない。もちろん非定形でないから、たった一字加えると明確に句意がわかるのに、定形化しないといけないという作品にぶつかると、作者のがんこさにちと腹立たしくなるんだが――。
T 字余り、字足らずは定形作品の中にはいるが、例外作品として容認されてよいのではないか、わざと破調にするというような考えは作者自身の不信を現している。
Y これは痛いね。
T まあ破調作品は、少しは、きびしい眼をうけるのはしかたがないだろう。
Y 私は破調の常習犯だからね。
T そのきびしさに耐え得る作品でなければ通用しないのではないか。
Y 破調と自由律は。
T 自由律は別だが――。
Y いや、私の言いたいのは破調と自由律の差というものが、定形で押している人たちには区別されないのではないかと。
T そこで、五七五の自由律もあるということが考えられないかな。
Y どう思うかと言われると、自由律作家だと言われる人が、五七五定形で書くとしても、自由律に相違ないのだ。定形作家から見られてたら定形だと言うだろうが、やっぱり偶然五七五になったんだろうな。形が先にあった内容をあてはめて行く定形でなく、自由に書いた内容が、たまたま五七五になっていた。そうだろうね、偶然十七字になった。としか言えないのではないか。
T 自由律は、あくまで口語表現なんだから、定形にはならないだろうが、十七字の自由律はあるだろうな。
Y 俳句の切字、そういう切字的な感じがあれば定形と言えるのではないか。
T 自由律にはその切字的な表現がなくて当然だと言える。が、「ま」はあるだろう。
Y また多行形式の松本芳味作品なんかを考えるとき、作品を面積――つまりタテヨコのある碁盤のように考えられないだろうか。
T 川柳作品が面積――というのはおもしろいね。
Y 十九格とか八十一格とか、面積的に考えると難解句だとか、飛躍しすぎていると言われなくとも理解できそうだが――。
T 短冊に書くとき、色紙に書くときの面積――。俳誌「青玄」が言っている、ワカチガキの問題もね、
焦点が絞られているので話題がブレないが、親しい二人の慣れや、一言の中での意識の転換があって、考えるより咄嗟の思いつきを気軽に喋りあっている感がある。二人を知っている人にはかなり愉快だが、外部の読者には通じ難いだろう。豊次の、「規定しないと」という言葉が当時の革新派的な思考態度を彷彿させるが、豊次は庶民の位置に立つ川柳人であり、実際になにごとかの「規定」を求めることは少なかった。時流に合わせつつ、時流を人情やヒューマニズムのところから批判的に書き、発言することが多く、「規定しないと」は革新派の豊次と平安の豊次の、つまり新撰苑選者としての二面性が露呈して(いまから言えば)ほほえましい。「面積」「碁盤」などの見方はゆきらの飄逸さから出た感がある。
句会での
黄と赤が沼を三分ほどうずめ 豊次
は今でも誰かが書きそうな軽い意表感の句。「黄と赤が沼を」に、当時ならではの何かがあったかもしれないが不明。
女城のある町に住み城をにくみ ゆきら
は新子さんを書いたかと思わせて、ゆきらの、さらりとした自在さが感じられる。
凧の尾の長さを妹に持たしてる 豊次
美容院の表に寒く男待つ 同
洗い場にたわしが置き忘れてある月夜 百日亭
カナリヤ鳴き美容院のパントマイムがつづく ゆきら
新婚の現実たわしを持っている 寛哉
耳に瞳に月の都を去りしより赤し ゆきら
神に対話する時ローソクの蝋たれて行く 同
運命へ棒ふり上げた尾の静か 同
自由席
片柳哲郎(川崎市) 12月号の洋々氏の前号作品批評で、所ゆきらの能面展より≠写生に終始していると断じたのは、問題があると思います。ゆきら作品の評価はむつかしく、表現を誇大にしない作家で、受けたイメージを再組織して、全く別な姿を静かに提出しているようです。ゆきら作品は、単純でありながら、実は大変複雑な心理描写を具象化しています。
結社宛ての通信から引くコーナーだが、この時代の川柳界の一部には昂然とした批判の展開があった。今の、遠慮か、傍観か、社交か、定まらないぬるま湯状況、あるいは意気込みの無さから見れば、川柳に直線的な態度の表明があったということになるだろう。上の「かれんとこおなあ」や対談に使われていた「作品」とか「作家」とかの明確な言葉が、諸々のやり取りの活性化に相応する用語として存在したことをあらためて思い出した。当時、一人一人は、川柳人というより作家だった。一句一句は作家の作品だったのだ。

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