1965(昭和40)年「川柳平安」3月号
豆いるや紅い可愛いべべのおばけが通る 所ゆきら
ふくはうち伝承の門のいわしの頭や
おにはそと歌物語るひいらぎの葉よ
矛持ち盾打ち鬼を追うかがり火の絵巻
鬼すでに逃げ終わる北の門玄衣に雪
許さじと地の匂い嗅ぐ犬とゆく 山本 礫
いびつな遮断機が正確に降りてくる
見えざるをことごとく切り山に雪降る
けものめく影に主役をうばわれる
錆びたキイであすをさがしてはいるが
今さらの孤独に佇てり陸の橋 戸田照夫
夜明けまだ遠く思索のオリにいる
夕焼けて空には空の哀しい日
みずからに勝たねばならぬ口とじて
雪に黙すほかなし鉄路あすへ伸ぶ
正義とやひとつの顔を曝すのみ 坂根寛哉
靴の底にある裏切りをもてあます
ブランコをながめたしかに堕ちている
曇天に生きてゆく武器まちがわず
ま夜中のペンの向こうのサタンの図
走ってやろうわが倣岸を負かすまで 北川絢一朗
きょうだけの金さえ風の尖まろむ
火も音も奪われ風に石わらう
塩あびてリンゴはひとを待つ色か
自動巻きできない脳本をよみそそぐ
泣きごえが出ない不況の日向ゆく 堀 豊次
不況の詰まってるカバンぶらさげ
クレーン不況を吊るし都会の暮色
値上がりの巷猫背となる庶民
地球の一角機関銃座はきょうも創られ
溜息の木枯しにとけ冬の位置 溝口晏子
血をふくむ髪かきあげて耐える日の
嘘をきく心におちる音もなく
骨の裏亀裂が悔いの夜を駆ける
盲想の中の自縛を笑えない
かれんとこおなあ
「俳句研究」1月号現代川柳を語る″タ談会は・俳人・柳人・歌人の現代第一線の人たちの、川柳と俳句という同じ形式を持つ短詩の、性格究明の序論である。その中で金子兜太の発言川柳は不易流行の流行に徹すべきだ≠ェ、ある。川柳家側の春三、祐、芳味三氏の答えはないが、私は至言だと感じた。というのは、俳句・川柳を意識するしないにかかわらず「不易流行」は、作品のあらゆる面にのしかかっているのである。(中略)誤解されそうなので私の流行に対する考えを言っておくと、一般に使われているハヤリ、つまり風俗言語のうわついた流行ではなく、現代の人間生活にマッチした上での、あくまで現代の社会的文学思考を、不易流行の流行と解している。川柳が現代社会に即した人間短詩である以上、不易という造形美術的な理想を捨てる勇断があっても、作家としては何も失うものはないと思うのだが―。(豊)
柳俳交流史についての評論は『蕩尽の文芸』(小池正博)にくわしいが、その一場面についての堀豊次の言である。春三、祐、芳味は、豊次が「天馬」の時代の同人どうしで気心が知れていることもあり、「不易流行」について、豊次が珍しく、川柳側の発言の無さを補おうとするような気配を見せている。むろん問題はこの発言ほど単純ではないのだが、不易と流行を分けて川柳は流行をとの兜太の見解に、我が意をえた、そしてーーという気負いの覗える短文である。
不易流行という言葉は、同人になって浅い同期の連中で富造、和男、博造らが熱心に勉強していたので知っていたらしいが、努力嫌いの私は聞き初めだったのでキョトンとしていたことを憶えている。後に豊次さんから聞いて、ここに堀豊次の持論があることを知った。兜太の見方と豊次の見解は、かならずしも同じスパンで語れるものではないが、極論というべき両者の言葉は当時の川柳の実質をものがたっているようだ。
今井鴨平の句集『人間像』のちいさな紹介文を豊次が書いている。
引用句
遮断機を胸の高さに政治なし
機関区のものみなくろし水噴き出す
杖曳けば悪鬼の相のすでになし
暗いなんどの灯に女いくたりか老け
新撰苑上位
群衆の夕陽に和している無題 坪井枯川
逃亡や背に自己愛の重き日に
致死量はもてり赤い矢をうけんかな
どうしてもぬげぬ手袋クーデター哭く 定金冬二
またしても回転木馬の足はかなしき
妻と唇触る埴輪の眼潰れたり 寺尾俊平
妻は既に風化の石に似て怠惰
充たされた肌理に氾濫する平和 高木祐治
赤い喧騒の焦点で凍る
嗜虐の血がたえず溢れている 鶴本むねお
墓地に向かってもっぱら道の端あるく
教育勅語見事少年の胃にもたれ 中村土竜
少年の鼻梁を滑り落ちた歴史
さすらいびとの積木よ崩れてはならず 徳永 操
塗り替えるえのぐだれかにもらわねば
鍵盤の上をころがる朱の罵声 広田伯雲
逆境にすなお一匹の犬飢える
編集さろん
編集会を12日。初校が20日と、一週のあいだに選句・割付・文撰・植字とすませるいそがしさ。23日再校。24日校了。これで27日夕に製本完了、春めいて来た各地に本誌がばらまかれることになる。読者の方々の紹介で新読者が急増してきて、限られた人間の余暇の仕事も限界に達しそうである。しかし、本誌を愛しつづける人たちの、作品交流の場が、ヒューマンなものであることを信じつつ、平安の努力をつづけています。ご支援ください。―寛哉記
胸の熱くなる舞台裏の努力である。
「平安」誌の評判がよかった大きな因子に、編集に携わる個々人が常に川柳界を眺望しながら付き合いのバランスに気配りを欠かさなかったことと、一方、川柳という文芸について誌上に現われる多方向性のなかに興味や問題意識を見て編集に転換していたことであった。
したがって、現代川柳の質的向上、質的革新を態度に出し入れしつつ新撰苑の選者を務めていた堀豊次は、平安の内部でも川柳界でも、ひとつの偏りをもった存在であり続けたのである。
新撰苑について
最近新撰苑の作品傾向についての、意見や質問をいろいろ受けています。毎号選後感をとのご希望もありますが、選者としてはまず憎ページの実現を編集部に申し入れています。四十四の作品の枠にしばられての選句の苦しみと、多くの全没者に対して話しかけも必要なのです。作者個人には没と発表作品によって、選者としての答えは感じて貰えても、第三者に理解できかねる作品の選者の感じ方を書くことが、より新撰苑を育ててゆく上にも必要であり、当然そうあるべきだと考えているからです。今しばらくご辛抱をお願いいたします。〈堀 豊次〉

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