おことわり。これは前回の「掘豊次の川柳25」を書き替えたものです。時間を置いて前回の文を読み、文章のひどさに愕然。ブログに掲載したものが気に入らねば黙って消すか、入れ替えるかでいいとも思うのですが、時期を逸したとも感じ、掘豊次の川柳とその活動を書いているなかで、読んで頂いている方々にここは是非改めたものを読んでほしいとも思っていますので、これを載せます。思い違いや月日などの詳細や、当時の川柳の状況を訂正する部分は少ないのですが、直視するべきを弛めていたところや、様々な要素の輻輳状態の整理が甘く、それが持ち前の悪文をさらにひどいものにしていました。当時の川柳の傾向と堀豊次の川柳活動はこのようにあったということを整理して、改めて書き直しました。私は、今回の部分が現在の川柳の状況に繋がる要素を多く含んでいると思っています。
昭和39(1964)年「川柳平安」4月号
勲章を作り枯野にぶら下げる 堀 豊次
勲章のうしろから死が歩いてる
勲章をすかすと金が積んである
玩具の勲章には美しい影がある
金がほしい自分に空があいてくる
施設児のこの春の詩を讃えよう 山本祥三
ある文字を消しかねたまま妻と座す
口笛が男を辛うじて保つ
追求の過程で紙幣にふれてしまう
凡人の視線が塔を這い登る
春をつかまえた手に打つ春の脈 布部幸男
雑草のいのちめでたし瓦斯タンク
庭石を踏んで金持ちあくびする
人間の埃の中のお釈迦さま
咲くを待ち咲けば散る日を早数え
喜劇一幕いくばくの金に封
失神の海を欲せり勝利者ではないが 山本 礫
拗ねた記憶の尻尾はいつも他人の掌に
ある開放哀しき賭に立ちつくす
夕餉の妻に深海魚が棲めり
幻の方向へ摘み出されゆくは父
手にすくわれし空間の耐えがたき 溝口晏子
新しき涙ある夜のこころ足る
地の底のぬくみを信ず歩の奢り
天井を見つめて罪を罪とせず
あすに敵あり陰のいろどりとなる
おろかにも自我を育てるバスに揺れ 坂根寛哉
いつの日かの勝利へいまは本を買う
平凡の詩をまん中に夫婦の血
水道のあるしあわせと税金と
大股で歩き信義を厚うもつ
灯をきそう屋根いくばくの幸住める 北川絢一朗
ひと迎えつつ歳月の悔いとなる
ささえあう底辺がまだ固をもたず
いたわりの眉にあずけたとげの指
こころの垢衣脱げず春いっぱいのなか
(「固をもたず」は意味不明。誤植だとも思われるが)
「雑草のいのちめでたし」と「瓦斯タンク」の附け合わせは景の写生から「めでたし」の一語でふわっと、ここちよい飛躍の句。
この年、子供達にワッペンをつけるブームがあった。豊次の「勲章」の句は当時では社会性川柳の範疇にあり、地に足のついた豊次らしい句。ワッペンブームが何月に始まったかによって句の現実感が違うのだが思い出せない。
「勲章をすかすと」は、透かして見ると、の意。庶民の意識の表現。
この号は当時の川柳の傾向が象徴的に現われている。その概略を記しておきたい。
まず、引用の句の豊次・祥三・礫・晏子・寛哉・絢一朗の句語に表出レベルの同一性が感じられる。
「積んである」「影がある」「讃えよう」「妻と座す」「ゆくは父」「影がある」「こころ足る」「歩の奢り」「バスに揺れ」「悔いとなる」「もたず」などの措辞は、日常生活の現実と情感を重ねる作句に浮かびあがる句語。川柳に現われた当時の庶民の心性、情感の一端、その深浅の一部を示す好例といえるだろう。私には定着感が強くイヤミのない叙法とも感じられたが、同様の句語が平安誌に多くあることがいやだった。
同様の表出レベルの句は他の川柳誌にもあった。日常的な心性の表現、その一般的なありかたが同時代の川柳の水準のように広まりはじめていた。表出レベルと書き方が横並びに似ていることはいやだったが、番傘の川柳の傾向とは違う現代的な感があり、番傘系の柳誌より自分のこころの現実に近いものと感じられた。チンピラの勘で、ここ(「川柳平安」誌)に自分が生きている現代があると感じながらも、そのおとなしさを物足りなく感じていた。現状を否定しない、抜け出そうとする意識が緩い、でも個人的な気持ちは書きたいという、ほとんどグチの並列状態と感じられたのだ。尤も、この日常的な心性の表現は、以後およそ十年間の平安誌で多くの川柳人が似た位相で書くこととなって平安誌の通底音の感となった。平安調≠ニいわれる大きな要素が醸成しはじめていたのだ。ここに自分達のこころが川柳となって現されているという感じ、非日常を感じさせぬ一般的な心性に相互信頼がそなわっていたのである。むろん平安調≠ニいう言い方は句語や叙法だけではなく、結社の性質や外部状況など幾つもの要素が重なってできたのだが、例句の句語は、誰かがその位相で書き始めて、追い着けの意識も追い越せの意識もない同じ共感性によって、ともに肩を並べるよき雰囲気を結社に醸し出す雰囲気を持っていた。
私は、このときはまだ平安川柳社の同人に引き上げられていなかったが、和を大切にして、結社活動の無償性をなにげないこととするよき雰囲気に親しみを感じていた。角度を変えて言えばそこに、庶民の川柳における自己表現がこの程度に通じ合えばよいとする姿勢、日常的思いを書く書き方の連鎖状態への居座りがあった。日頃の心性の表現は同じ位相からなされて当然だとの雰囲気が結社に行き渡っていたのだ。多人数の投句欄「蒼龍閣」の選が<共感の文芸>を実証し続けた。なんとなくだが虚構表現を日常的心性の表現より下位と見る空気のあったことを忘れない。平安のみならず、この水準が私性川柳と、思いの表現という素朴なリアリズムを川柳界に蔓延させる要素となっていたのである。このみなもとは、いかに生きるかという問題意識とそのポーズが戦後の思想や文学の潮流としてあったことであろう。川柳もその係累としてあればよいとする方向性が無意識にせよ川柳界にあったのだ。
いうまでもないが、川柳界に、本格と革新という分け方があり、戦後、この意識は強かった。そこに、ものを書く者は生き方についての思考を伴なわせるという意識の深浅があり、句に出た。一方は生き方の思考と表現についての楽観、あるいは無視。いま一方は文学でありたい、それが社会へ能動的にコミットすると意識していた。姿勢の違い、対立項があったのだ。数年後だが、私を革新派のチンピラと見て多数決原理を振りかざす言辞をぶつけられた経験がある。あわやのところを友人の機転がおさめてくれた。これも後年だが、結社内でのまったくの冗談ではあったが、新撰苑や革新系の句は「いがみ(歪み)」と言われ、それを少しずつ自分の書き方にしようと思っていた当の本人、私も、それを反語的な存在感の確認として笑って聞いていた時期がある。一党一派に偏しないという結社のテーゼに、多数の本流と少数の渓流ともいうべき多数決原理があったのである。
そして、川柳とは同じ意識や認識や共感に立つ表現だとするゆるやかな楽観、おおらかな結社の姿勢は、新撰苑の存在と併せて川柳界で平安川柳社の存在感を広め、同人も読者も増える方向に向かっていたのである。
掘豊次がこれをどのように見ていたかはわからない。
一方、革新系川柳誌は、大きく言えば東西のイデオロギーと経済体制の対立がこじれて東南アジアに火種ができる状況があり、国内で保守と革新という色分けがあらゆるところに及ぶ時流のなかの生という意識の反映が多少なりとも表出レベルにあった。むろん個々人の個別性は句の主題の違いとしてあったが、外的状況と自己の生という意識には社会性とともに一般的な川柳より深い、あるいは過去の句を超える句を望む意識があった。
これを象徴するような流行現象が、引用の豊次の句「勲章を作り枯野をぶら下げる」の「ぶら下げる」という表出レベルにある。
引用した句のなかで、この表現だけが心性の可視的なイメージ化である。上記の「立ちつくす」「こころ足る」「厚うもつ」などと違い、豊次の「影がある」「あいてくる」の日常次元からも離れて、一個の創造されたイメージがリアリティーを持っている。私はイメージが心性を伝えてくることに感心した。
私が革新派といわれる川柳誌をまとめて読み始めたのは二年ほどあとのことだが、革新系にはぶら下げたり吊ったりするイメージを書いた句が多いなとの思った。
実際「吊る」という句語は革新派とその周辺で流行った。豊次の「枯野にぶら下げる」はかなり早かったと思うが、その先鞭と言えるかとなれば、不明。
「吊る」の代表といえば亡き作者に叱られそうだが
おとこの一物だけは枯木に吊る 草刈蒼之助
がある。後年の句だと思われるが初出不明。
吊ったりぶら下げる表現の流行は短期間だった。
革新派とその周辺に流行る句語が出るという現象は、まず誰かが「吊る」と表現する位相に至って書いたか、革新派の数人の意識が同時期に同じ位相に達して書いたということだ。言ってみれば、個人の不安定な心的状況と社会的卑小さ、その自嘲の表現が「吊る」である。「吊る」の他に「運河」「灰色」などの句語が流行ったようだが、これらがかなりの刺激を持っていた。そして革新派の追随者がこれをそのまま倣った。
追随者が、個人と世界の関係性の捉え方に共感したのだ。しかも追随者の意識には、自分もこの表現を書くことで川柳人としての上昇意欲が一つ達成されるということがあった。つまり流行であれ模倣であれ追随者の眼の前に、個々人の上昇の自覚をもたらせる句語が皮肉なことだが、ぶら下がったということである。少なくとも「影がある」「バスに揺れ」「こころ足る」「悔いとなる」などの表出感より、「吊る」と書くことに意識や認識をイメージ化する手応えがあったのだ。そして、心的イメージを書くことが、革新派の周辺にとっては革新派に伍したことを自己証明することだったのだ。追随であれ模倣であれ、追い着け追い越せという素朴な自己革新の意識、自覚的エピゴーネンに――「吊る」のイメージが象徴的に働いたのであった。
むろん、追い着け追い越せの姿勢が厳しければ、作者は同じ位相に至っても先行する叙法や句語を避ける。事実、この自覚に立つ先鋭が何人も居た。作家精神だけから言えば、この少数者がホンモノの革新派と呼ばれるべき人であったが、川柳の世界では、ホンモノと周辺の追随者を分ける眼を具えもつ人は、そのホンモノの人達だけであったのだ。表出の深浅や表現やイメージについての批評はまったく無かったのである。革新派は川柳界の作家精神について無関心であったのだ。
だから川柳界の大方の眼に、革新と革新を自認する追随者はすべて〔革新派〕のカテゴリーに含まれていたのである。これによって〔革新派〕は一つの勢力をなしているとも見えたが、ホンモノの革新派はこれを振り払うことも、整理もせずに苦笑にとどめて、やがて〔川柳ジャーナル〕を1966年に立ち上げる。川柳史から言えば、振り払いも整理もせず、という態度がこのあとの、川柳全体の居心地の良さをつくり、質の峻別のなさを許容するなまぬるい雰囲気をつくったのだ。尤も、質の厳しい判定、厳しい選と評価についての論が無かったから、私のようなチンピラが川柳に居続けることができたのだが。
しかし、これらは後年からの視線であって、当時に交わされた革新派や〔革新〕という言葉の実際の理解にならない。なぜなら、革新派という言葉はもちろん党派性を帯びていたが、社会生活のなかで〔革新〕という言葉の響きは、政治性や党派性を帯びていてもいなくても、なにごとかの前近代性を糾して改良、変革するものとしての社会的革新性と不可分の用語であったのである。極めて曖昧で、曖昧であるからこそ、川柳での〔革新〕の存在感は社会で異常に膨張した流通言語〔革新〕と混在したままであったのだ。
結果、川柳の世界での〔革新〕は、さまざまな位相の違いを併せ持ちつつ、個々人に内在する革新性の理解や認識によって言われていたのである。社会ではなにごとにせよ保守か革新か、どちらだ?と見る習性をマスコミが一般化するかの報道をしていた。したがって日常生活の中で保守と革新、左右の違いは、質を云々する前に、これまでを変えるだけで、それは〔革新〕という用語の色彩を被って見えたのである。
そして川柳界のだれもが、多少なりともこれまでの川柳がどのようなものであったかの概念を持ち、違ったものが書かれることに即、〔革新〕であると神経が反応したのであった。
先鋭の句と追随者の句の総てを川柳界の視線は【革新派】の領域に並べた。革新派という言葉が文学的革新性を若干含みつつ、その大方が社会的用語と同じであったことは、その時代に、川柳に接していた川柳人でなければ実感できず理解できないことなのである。
以上が、番傘系と同水準の句を並べる圧倒的多数の(したがって数的に川柳界をかたちどっていた)結社誌と、それを含みつつやや離れて、川柳研究・川柳雑誌・川柳平安・岡山・柳都・せんば・こなゆき、などが同時代的日常性と心性を重ねる句を連発し始めていたのが、いわばおとなしい川柳を書いていた側の当時の概観である。
そしていま一つ、「川柳研究」誌で川上三太郎の慧眼と指導力によって主に女性の日常的意識にひそむ情念を書いた川柳を押し出す動きがあった。これが上記の、いわばおとなしい結社の日常詠に影響、今日に至る私性川柳や「思いを書きなさい」という素朴なリアリズム信奉の指導者達の礎となって行ったのである。
〔革新〕の河野春三、山村祐、松本芳味らは女性の情念の表出を歓迎、追随者を含む革新派は、微笑しながら煮え切らない態度の宮田あきらと掘豊次を除いて、おおむね大歓迎したのであった。そこには革新派が意識していた詩や暗喩があった。
なにしろ、その数年前に、革新派の男性陣(ほとんど全部が男だった)はこぞって社会的情念の表出を連発して社会性川柳を名実ともに名乗り、革新派という言葉に政治性や社会性と溶けあっている感があったのである。革新派にとって女性の情念の表出は社会の改良を促がす〔革新〕的価値もあったのだ。
以上のように、@川柳という文芸の先端にあって何かの追随や模倣を拒んで革新しようとする先端的動きがあって、A理解できる範囲で@の成果に伍そうとする動きがあり、Bこれらの動きを見ながら、その読みや理解云々より、日常生活の心性や情感を素朴に書く川柳があった。Cそして女性自身の心性を見つめる視線が深化して情念を表現する動きがあり、Dもちろん、@ABCの動きにほとんど無関心な大多数の川柳人が居たのである。
私は、いつであれ、表出レベルの同位性に神経を向けておらねば、ごく自然に停滞と飽和が生じるとの意識をもちはじめていた。川柳に触れ始めていたところでごく自然に、統一感や同一性になじまぬ意識が持ち上がっていた。しかし川柳界で遊びたいという意識を押さえる気はなかった。川柳で、一生懸命に書く句と遊ぶ句との使い分けは難しいことではない。川柳という文芸の性質にこれが濃厚にあり、そんな川柳界に倣ったと思っている。
ちょうどこの時期に高速道路が出来、新幹線が動き出し、家電品を中心に日常生活の質が急速にモダン化していった。その渦中の庶民の文芸、川柳であった。川柳史的に見れば、この頃の社会性川柳や様々な句に時代の特殊性を脚注として付けねば後年に理解できないような一時期であった。本格川柳とか革新川柳とか社会性川柳とかの言葉が幾層もの状況の重なりによって成っていた。メディアが世の中の動きを大雑把な認識としてそれぞれを指示する用語を流通させていたことと同じように、川柳界で通じ合う大雑把なカテゴリーがあったのである。
経済の上昇傾向と生活の急速なモダン化が、事象を一まとめにする用語を必要とした。ベストセラー、バカンス、カギッ子、プレタポルテ、ニット、シャーベット、ニチボー貝塚、ワッペン、スナック菓子、クリネックティッシュ、忍法、木造モルタル。
多様性という言葉が売らんかなの商業経済に犯されはじめた時代、目の前が日々に変化して行った時代の多様性、多様化が、川柳に現われていたのである。
やがて新撰苑は、川柳の世界で革新派の周辺の作品レベルと平安調≠ネらざる作品レベルとの混在によって、よき刺激の場となるのである。チンピラの私は句会などで遊びつつ、この平安調≠ネらざる句に近寄りたかった。
はたして堀豊次が新撰苑のその後を予見していたかは判らない。
だが、社会的な意識より心性の深みに向かい「吊る」などのイメージ化の句が増え始めると、豊次はそれを川柳の深化と見て抱えこんだと思われる。定金冬二と、後に新撰苑の熱心な投句者になる寺尾俊平、さらに名の知れた何人もの好作家が新撰苑に抱えこまれて佳作を連発する時節に入ってゆくのである。
しかし豊次は、表面的に女性の心性の深化、情念の表出の動きを前向きに捉える姿勢を見せていたが、これを積極的に評価する様子を示さなかった。新撰苑に女性の情念の表出はほとんどない。
女性の精神のリアリティーを認めながら、社会的立場や運命の悲嘆の表現に混在するエゴイズムとナルシシズムを感じていたのだ。それらの句に、豊次を含む男たちが書きつづけている社会性川柳との大きな違いがあった。
そして社会性川柳を書く男達は、ナルシシズムを書くことに無関係であり、それを自身が書くなどということに男としての羞恥心を持っていたので、そこから見て、女性の自己表出を平等観とともに、男はこれを保護するべきとの思いで好意的に見ていたようである。女性の川柳のナルシシズムを気にする人は実に少なかったはずである。
しかし、川上三太郎という、川柳界での大きな存在、マスコミにも名を響かせている人が、結社誌の選で女性の情念の表出を次々と押し出したことは、それらの句の大衆性とあいまって強い刺激をもっていた。川柳界に女性と新人の進出の勢いをもたらせたのである。若者と女性のモダンで無頓着な川柳観が流れこむ時節が目の前に来ていた。
私は遠いところ、最初は「川柳研究」すら知らないところで、この員数増加の時代の恩恵によって拾われた箸にも捧にもかからぬチンピラだった。
川柳界は賑やかになって行った。あちこちに戦中・戦後に生まれた新人が出た。
この賑わいは、川柳界に時代の潮流に合わせる多方向性を賑わいとする浮薄さと、日常茶飯事をうがつ程度の本格派やそのシンパの姿勢を明かにすることとなった。自ら世代交代に乗り遅れる方向の本格派は、以後、多数原理を標榜するかの動きを展開するに至って員数を増し、川柳の質については水府の路線を無意識的にせよ教条的に囲いこむ感に向かい、水府を超える活動を皆無とした。
これらの動きを豊次がどのように見ていたかも判らないが平安川柳社の周辺では若い私などに、折々、民主主義下での川柳の動きを解説する程度にとどまっていた。そして
豊次の時代感覚と女流の句を見るまなざしは、革新派の春三や祐や芳味、あるいは伝統川柳人として革新系の人達に折々豊次と名を並べられていた中村冨二らに比べて、醒めていたと感じられる(後年、芳味が豊次と同様の視線を明らかにするに到る)。
やがて時実新子は春三や草刈蒼之助に近づいて革新派に属すると見られてゆく。川柳界が、新子の急激な作家的深化とその句を読めない状況となってゆくのである。春三と草刈蒼之助は、新子が遮二無二書き続けて佳作を連発する姿勢を好んだ。しかし豊次は古くから春三の行動と革新性をよく理解し、人間どうしとしてこころを開き合っていたので、春三の一途さや溺れ易さをよく知っていた。
女性の句のエゴイズムとナルシシズムを見ている豊次の視線を、春三に近寄った新子が感知しないはずがなかった。
豊次と新子は終生、相手に対する姿勢を崩すことがなかった。昭和39年は、その前夜だったかもしれない。
だが、皮肉にも川柳は、時代の潮流と重なって、思いを書くとか私性の開陳の文芸としてあらゆる私性の表出を価値あるものとする傾向に滑りこんでいった。ほとんどまっしぐらにである。句会や大会の句は、日常生活の心的断片に情が伴なっていれば価値となった。
革新系川柳誌も本格派やそれに似た多くの川柳誌も同じだった。そして、革新派とそのほかの川柳誌とは、私性の表出レベルの差で離反、一方が読めない(読むちからが及ばない)ほどに離なれてゆくのである。
数年後に豊次が、チンピラの私に洩らした一言がある
「三太郎はんは川柳が右へ行き過ぎると左へ、左へ行き過ぎると右へ、舵を取る力がある。そういう位置に居はる」
新撰苑上位
風に曳かれて行ったきょうの夢たち 服部たかほ
あごのあたりを行ったり来たりする夢よ
子の夢のじゅうたんに乗っている父と母
血管に乗り込むつもりの牛乳よ
人間の手へ人間の手の歴史 乾ふたよ
だれも消してくれぬ心の掲示板
いまなお貧しそが閻王に斧振り上げ 城山朶夢
道の辺に銭せがむ子の狂わぬ月曜
精巧なおもちゃをかまきりが食べてしまった 山本ひよこ
きざまれたリズムが夢を食べている
政治たちまち黒いマントに包まれる 定金冬二
どうしても持たねばならなぬ黒の重量
竹二読む小林多喜二反射する 川上湧人
打ち寄せる波は親子だ抜け殻だ
人間である危懽念珠掌に温くし 中村土竜庵
永劫の無に対峙して春の僧
人間廃業届を書いて蝶になりたい 長町一吠
骨壷のなかで平和がころがっている
一句組の中に
団地の孤愁階段と白き部屋 小黒王石
スタートラインにルージュはいらない 田中博造
風が哭いているすっかり私の声である 徳永 操
ヌード貼るアア青春が流れさる 戸田照夫
汚れた手がつり銭を握りしめ 逸見堅治
この号の王石・博造・一吠・操などの句の調子は新撰苑に多かった。破調、自由律などと言う用語があったが、川柳の世界で定義があって書いたり喋ったりされたわけではない。
一吠、操の句は発想段階で散文的な調子を自由な韻律に整えようとしている感がある。豊次はこれを認めていた。傍の所ゆきらが韻律の自由を生かしつづける好作家であったことも影響、さらに豊次・ゆきらが戦前の新興川柳のそれをを知っていたこともあった。しかも、豊次は時代の潮流に川柳の口語化傾向があると意識したふしもある。
とにかく新撰苑に五七五に拘らない句が沢山あった。

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