昭和39(1964)年「川柳平安」2月号
掘豊次の創作なし
新撰苑上位
開けてはならぬドアーの鍵をてのひらに 定金冬二
満員車の一人が狂うかも知れず
はじまったのを神さまはみているだけ
失意の日リンゴつづけて音で食う 乾ふたよ
思想を抱いたわが影をたしかめる
陽に向かい倫理乱した手を洗う
物価倍増にんじんは常に馬の鼻っ先にある 石川重尾
吊革の感触が棲みついてしまった
沈殿する電車ばかりであせってしまう 服部たかほ
点線のとおりに歩いているおとなのあくび
ホルンの反骨がセピア色の風になる 山本ひよこ
神秘を演出する単調の反復
僕とカラスと寒い戯画だった 中村土竜庵
冬海のこころ廃船に陽を吸わせ
天国と地獄を奏でる一枚のレコード 橋本京詩
プラチナの雪が怨嗟の声を蔽う
ハンカチの白さ冬の陽に無意味 小黒王石
聖歌隊すぎれば夜は凍ってる
「一人が狂うかも知れず」は、いまとなっては同想の句を何度も読んだと思うが、この句以前に有ったかどうか知らない。「はじまったのを」は、何がはじまったかを書かないままに「神さまはみているだけ」とやわらかい表記に含ませている。豊次は表記のテクニックを好んだが、これは思わせぶりだけで、ちょっとなあ・・の句。「単調の反復」は、当時の作者が主にクラシック音楽とその用語を書いていたので「短調」だとも思われるが不明。橋本京詩はニューヨークの人だったようで、アメリカに川柳の結社があり、紙誌が出ていた。
この号、特筆すべきは「新撰苑」の下段〈新刊紹介〉に『新子』(時実新子)があること。たちまち川柳界の評判になった句集であり作者だった。戦後の色合いがようやく薄れて民主主義の広がった時期であり、楽観的な民主化を書いた小説(映画化されて流行った)「青い山脈」の新子を思った川柳人もあっただろう。
初心者向けの「川柳教室」(布部幸男)の教室名吟に
正月ぐらい洗濯やすめお母さん 千葉和男
がある。評に「この一句ドキッときた。無技巧の迫力である。新鮮である。いい感じの句であった。」とある。千葉和男は京大生。田中博造、私と同年で京都新聞の柳壇の教室で手ほどきを受けていた。この句と『新子』の発刊とあわせると、いまさらだが民主主義の広まった世相、そのなかで庶民の本音が多く書かれた「新撰苑」の存在理由が思われる。
句会吟から
オリンピックの年がはじまる保安帽 豊次
線路あり列車ありて全学連がいる ゆきら
生まれた時からかど口にある線路 百日亭
昭和39(1964)年「川柳平安」3月号
眠ると耳から無数のきょうが出てゆく 掘豊次
夫婦で歩けば国道のパチンコ屋
背中に交尾の犬の眼を貼りつけ
1月号の「靴屋に靴並びテレビ暗殺をくりかえす(豊次)」の句について豊次が短文を書いている。
「(前略)作者は靴屋の靴を、背景、点景的な意味で使用しているのではなく、全体的なものがイメージとして生まれてきているので、作者にとっては絶対的な靴屋であるとお答えする以外に方法がない。(後略)」
読者の読みからいえば、「靴屋に靴並び」は点景と読めると反論したくなるが、豊次は、ケネディー暗殺事件を一人の庶民がどのように感じたかをイメージ化させた一句というのだ。
イメージだけの句という書き方に豊次は可能性を思っていたのだろう。現代詩から川柳に移ってきた山村祐などの影響があったと思われるが、豊次は新興川柳にその先鞭を見ていたと思われる。イメージを書くことが近代的なものとの認識があったらしい。まだまだ川柳界には俗物性や前近代的な気分が多かったので、イメージを書いた句を対置したかったかとも感じられるが――わからない。いまひとつ推測すると、前号にもこの号にも、新しく川柳を始めたズブの新人、川村富造・田中博造・千葉和男などの名が活字になっており、「イメージを書く」句ということを持ってこれら二十代の初心者の気を引いたのかもしれない。モダンという言葉は社会的にも風俗的にも、ハイカラという言葉を旧世代のものとして押しのけて、それにかわる進取や新進の気分をもっていた。
新撰苑上位
人間性を拒否して遊んでいる和音 山本ひよこ
知的な遊戯が救いのない社会をえぐる
人生の無慈悲な霧を通して彼等は歌う
重い雰囲気を夕陽が食べていた 服部たかほ
風の点滅心の止まり木が欲しくなった
あしたの夢を売っている夕陽
墓地を背おっているネクタイを結ぶ 定金冬二
墓地へ行く階段クツをみがかせて
夕焼はまっかだ墓地はオマツリだ
新撰苑一句組のなかに
成人――社会のダムは開けっぱなし 田中博造
白い手で嘘のオモチャのネジをまく 長町一吠
禁煙したおじいちゃんに集まる目 千葉和男
新撰苑の多くの句やこれら三句はさほどの新しさをもっていたのではない。どの句も当時の庶民の日常的な気分や本音などの微弱な抒情を書き、感覚的言辞にする程度の句だった。しかし、新撰苑の句はやがて二方向の展開を包括して行くことになる。一つは、従来の川柳に書かれた主題の深化や更新であり、いま一つは、作者が近代化された社会にあって、もう、前近代的感性の払拭された位置から書けばよいとする、いわば渇いた抒情への指向であった。豊次はそれらを推して行ったのではなく、むしろ、投句に啓発されたり共感したりの、いわば句の感動を選に反射していた。これが豊次の幅であり、新撰苑の幅広さであった。
外から見ると堀豊次は、あたりのやわらかな京都人という印象であった。そして、「新撰苑」は実にユニークで魅力のある投句欄だった。もちろん、あんなものは川柳ではないと無視する多くの前近代的な本格派の川柳人があり、その口吻も「新撰苑」の存在を喧伝することとなっていたのである。

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