昭和38(1963)年「川柳平安」12月号
不意にタクト振る資本家阿呆の木登り 山本 礫
計量器よ父なる重さの針がない
そば食うしぐさもカラスに似て哀し
風に巻かれて一人の男去る外なし
はげしく倒す物を欲する時である
惜し気なく陽がさす土器の博物館 上田枯粒
土器欠け縄の疲れはり付く
埴輪余りきれいで三池国電の惨傷
街は夕暮れ電光ニュース嘔吐する
時空をこえ円い地平線に逆推進
寛哉君の結婚によせて
人生がはじまるきょうの顔洗う 掘 豊次
〇
選挙の車とおり他人の街となる
選挙はじまり民話を創る白いカラス
チャンネルを回して庶民乾いてゆく
親と子の血液型を検べる段階にいる 所ゆきら
なんとなく孤独で秋が好きでO型
AB型の鎖国的な現実を作ってしまう
とんびのかえるの寓話としてA型の子
OとABとAの会話に枯れ葉落ちていく
新撰苑上位
日向ぼっこきょうの活字が足りない 服部たかほ
楽しさを知ってる靴音は停まらない
人間へ距離を置いてコスモスは咲く
水のきらめきはトランペットのめしべ 山本ひよこ
ヴィオラ憂愁を抱いて霧の夜明けをさまよう
石垣のつぶやきだれもきくものなし 定金冬二
自分への疑いがあり灯をつけず
昼―ビルの壁面を這い上がっていった哀愁 中村土竜庵
男―鼻梁のどこかにウイットを隠している
私は「川柳平安」誌を読んで掘豊次・所ゆきら・山本礫などの句にひかれていた頃であった。それらの句の全部を理解できるものではなかったが、同じ時期に、「番傘」誌と「俳句」(角川)も読んで比べていた。半年であったか一年であったか忘れたが、結局「平安」の、とりわけ「新撰苑」に、現代の川柳はこんなものだとの親近感や、当時でいえば革新性に肌合いを感じた。
これには時代背景があった。
米ソを中心とする東西の冷戦下という大状況があり、日々の暮しの中に、保革に分ける、あるいは分けて見える諸現象がナマの感じで有ったのだ。保革、あるいは左右という現象が日常にも社会にも日々に動いていた。実質的にも、感情的にも、二十代の神経はこれを風俗的な現象として捉え続けていた。<政治の季節>といわれた時代である。
そこで自身のあり方、生き方については、東西であれ保革であれ、なにもかもが見えるということを大前提とすることが大切だった。状況が並列的に見える偏向のない情報を求めていたのだが、偏向のない情報など有り得ずにどちらか一方に親しみを感じたり、かといって変化の多い時代の中で急進的になることは危ないぞとの意識だけを頼りにしていた。はたして自身の選び方に偏りがなかったかと自問すれば、あったにちがいないが、情報の享受者として、とにかくできるだけ広く知りたかった。なによりも偏向や全体主義の臭気を五官が嫌悪していたのであった。
「川柳平安」への信頼は、誌面にいろいろある、ということであった。
むろん、偏向や全体主義への嫌悪という姿勢や態度が、平安川柳社の中で見れば、偏向に見えたり感じられたりすることが多かったが、これについては後に同人となり、中でいろいろな見聞や体験のあったことをここに書き残すこととなる。
上記の「川柳平安」(昭和38年12月号)に、私を引きつける次のような文章があった。
「(前略)平安創立当時、対番傘といろいろ問題があったことは事実で、番傘というより、京番にとって、平安は目の上の瘤だったかも知れないが、川柳界はなにも番傘だけのものではない。平安は平安としての主義目的のために、今日まで努力して来た。
在洛各柳社が合同して平安は生まれたのであるが、それに参加しなかった京番は、京番として執る道があったのだからそれは自由だとして、京番といい、平安といい『川柳のため』という目的は一つなのだから、各自その所信に向かって努力すべきで、柳社同士がいがみ合って益するところはない。
だがここでハッキリしておきたいことは、かつて川柳忌や徹夜句会について、京番から共催の申し入れを受けたことがあったが、平安はこれを断った。事業を行う際、何もかも一しょに行わなければならないという必要はないと思う。いつも京番と平安が名をならべて主催するのなら、二社に分かれている理由はない。もしそれを可とするなら、京番こそ平安に合併すべきである。でなければ、大番傘の庇護のもとに、京番としての特色を生かして活動すべきで『仲よく』という解釈を間違えたり、混同してはならない。(後略)」
執筆者は福永泰典(のちに清造)。平安川柳社の中核にあって大きな器量を発揮された川柳人である。
この文章の小気味よさ。そこには、番傘の川柳が一つの方向性に向かってのみ書かれ、選がなされ、文芸としての質を一定のところに止めていることと、一党一派に偏しないという平安の、いわば何もかも並列する姿勢との違いが現われている。福永泰典は元番傘の同人であり、句風は番傘風からいつまでも抜けることがなかった。そして、「新撰苑」の句のすべてが泰典に理解できていたとは到底思えないが、川柳の一部に「新撰苑」に載るような句の潮流があることを理解し、認識する幅の広さを持つ川柳人であった。もちろん番傘内部に、一つの方向性のみを押しつける頚木があったというのではない。自由であったに違いないのだが、誌面に並ぶ句、とりわけ選句欄に並ぶ句が、一つの方向性を示し続けていることは、まったくの素人の私にも見えていた。それは「番傘」誌の部厚さに比して、極めて狭いものだった。のちに、柴田午朗選の一時期があり、傾向の開かれた感があったが、僅かの期間で選者が変わって、泰典のいう「大番傘」の句は感動の無い句の羅列にもどり、外見的には、一つの偏りに見えるところにとどまりつづけたのである。
この意味で、上記の引用は、当時の京都の川柳界を現していると共に、〔「番傘」ではないところで書かれた番傘的ではない川柳を、信頼できる選者に問う〕川柳人の大番傘観が、泰典の視野として文章の背後にあったことをものがたっていた。つまり、この文章の書かれたその後に、平安の選句欄「蒼竜閣」と「新撰苑」の投句者が極めて多彩になり、句に様々な傾向の句が載り、単純に本格とか革新とかの区別をもって言い切れないほどになったのである。平安誌が川柳界の多彩な好作家の目するところとなる情勢が待っていたのである。それは、平安の投句欄が、東の「川柳研究」と同じように、強い求心力を見せ始めていたということでもあった。
翌年の東京オリンピックは日本の経済の急上昇を象徴したといわれている。その中で、この国の特殊性であっただろうが、時代の潮流は東西の冷戦やイデオロギーの違いを反映して、左右とか保革の両者が並立的に並び、相反する方向が存在を主張される多彩でにぎやかな状況を展開したのであった。川柳はこれを反映し、平安はその舞台となったのである。社会的な情念の表現は、すでに革新派において川柳界という意識をも持たぬ活動となってゆき、女性の情念の表出が急激に多彩になる準備の時節であった。引用の文章は短いながら、東京オリンピックの前年の川柳の状況を見事にキャッチしていたのである。
しかし、東京オリンピック前後の社会状況の多彩さは多分にファッショナブルなものでもあった。社会でも川柳界でも「多様性」という言葉が当然のように広まっていたが、イデオロギーや保革などの並列的展開の背後には、先の戦争が全体主義の現われであったという認識が社会的にあり、「多様性」という言葉と同じくらいに、平和という言葉も社会に流布していた。これが川柳の多彩さの広がる土壌であったのだ。
しかし、多様性とか多彩とかは、極めて社会の表層的な現象であった。この国は経済成長一辺倒の方向に向かって、ほとんど全体主義的といってもいいほどに偏る地崩れ現象を露わにしはじめていた。
「新撰苑」は掘豊次の予想を越えてであっただろうが、このあと時代の潮流とともに多彩になり、存在感を強くして行ったのである。
いま思えば、「新撰苑」もまた、批判されるべき種子をかなり多分に、風俗性とともに露出しながら展開することとなったのである。

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