「川柳平安」昭和37(1962)年9月号。豊次の創作無し。
八月十六日ひるイスズガワで手を洗うてる 所ゆきら
スサノオニミコトがいない神都の半径
まつられているサルタヒコは男のカミサマ
シマ・一秒で越える水路で本州から離れていた
シマ・女が働いて男遊んでる風の噂
月給がきめられている朝を出る 坂根寛哉
歩いてゆく人生の背をくずされず
音たてるペンにある日は励まされ
白桃の誇りをおもう夜を黙し
いつわりを重ねてすでに秋が立ち
カタカナと「・」の用法にまったくイヤミを感じさせない所ゆきららしさ。「朝を出る」「背をくずされず」「ある日は励まされ」「誇りをおもう」「いつわりを重ねて」などの「を」「は」に、日常的な思いが一句になるときの、抽象化の実際がある。いまの我々にとっては、これをどのように揚棄したかが意味をもつのだが、五句のリアリティーが思わせるのだという謙虚さを持っていたい。
「新撰苑」上位入選組みから
潰瘍の局部をえぐるメス持たず 吉本十方
恥部露出症のカルテ持ち組閣完了す
凹みなる深部に黒き皮膚を沈める
愉快な靴音だ僕はついて行く 服部たかほ
押せばさからわぬ車を押す
影をだまして傍観者の立場を守る
愛の重さを意識するとき生きている 定金冬二
愛のたたかいとうめいの血を流す
愛情のもろさよ川は流れゆく
生理的変化を叫ぶうつろな血 枡井碧水
環境をヘッドライトが射すくめる
人遠くあり汗だくの僕を笑う
前進か破滅か灰を身近にす 中西一調
ノーモアを僕のむくろも絶叫する
妻はガラス鉢の金魚でないはずよ 橋本京詩
恩讐の彼方で花火炸裂す
「黒き皮膚を沈める」の措辞に当時の日常的なリアリティーがあり、上の、寛哉の句のリアリティーとは表現の質がちがう。
8月に催された「夏をたのしむ会」(俗に、徹夜句会)の三分間無制限作句六題からの抄出が載っており
かなしみの相手の影を見て歩く 豊次
風船の中に子供と父の息
がある。豊次の作句法の一つに、小説や映画の中の一情景を創って言葉に移す書き方があり、三分間無制限作句でこれが発揮されたと見える。
平安川柳社の句会は毎月一日と十五日の夜にあった。8月15日、題「戦う」豊次選に
戦うて和睦してくりかえした俺とお前の歴史 ゆきら
乳屋と新聞配達が街の斥兵となる 選者
がある。五七五定型から離れた句が「新撰苑」の入選句にもかなりあり、これらの書き方が当時の特性を現わしているかは輻輳した要因が思われて即断できない。この二句の叙法は、戦前戦中の新興川柳の系統が意識されていたと推察できるが、「新撰苑」の多くの投句者と選者の豊次には、一句のリズムが時代を反映するとか、作者の個性と見る趣きがあったように思われ、そこに世俗的な〈モダン〉な感覚があったとも感じられる。あるいは破調という概念に社会性を被せるところに既製のものへの革新衝動が働いたとも感じられ、そこに、庶民が社会の進む方向へ均される状況の反映があったとも感じられる。有名な
パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い 中村冨二
の、小さな椅子でパチンコ台に等しく向き合っている姿の戯画には、作者の庶民的な意識と社会観が重り、当時に流行っていた実存主義への関心が覗われる。
肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ 中村冨二
これは貴方の様に満腹な虱です 同
蟻あるくあるく、胃袋歩きつゞけ 同
虫の死の表情もなき死を思え 同
眼も鼻もない通勤者のみ、ゆけり 同
などの意識は、豊次の庶民的なヒューマニズムと通う川柳人冨二の位置取りを現わしている。そして「肖像は」「これは貴方の」の、ほとんど野放図とも感じられるリズムに、とにかく作者の思い、意味を、散文的な発想を優先して書く「新撰苑」の投句者との共通感覚があったはずである。実際、当時の革新系の句には破調がたくさんある。韻律や調子を乱すといった傾向は少なかったと感じられるが、自分の一句は自分のリズムでという意識が革新派のなかで認識されていたのだろう。しかしこれが内在律の問題として考えられるまで行かなかったところに、韻律についての革新派の限界があったと見える。
所ゆきらの破調は、本格派から遠く、革新系からも離れていたが、どの句の調子にもゆきらの美意識が働いていた。8月の句会から――
ステレオとレコードどっさり持っていて音痴
ゆうれいの前を押さえるすずしさや
アスハルト点と線残し氷屋の三輪車
日蔭あり一人の男タバコ喫う
のみを句にして奧の細道を芭蕉行く
のみのキンタマの電子ケンビ鏡のヒルム
女本能的にたたかうことば持っている
平安の句会には革新系の人は少なかったが、いろいろな傾向の川柳人の参加があり、定型墨守の本格派の人達は苦笑しながらゆきらの句を聞いていただろう。でも、とにかくこれらの句が句会で入選する要素を平安川柳社は含んでいた。書きっぷりがまったく自在で、力みのなさに魅力があったのだが、只今現在に、これらの句が入選するかを思わざるをえない。所ゆきらという個人が持っていた川柳味は、我々がいま書いている句会吟より、他文芸から見て川柳らしいと感じられるのではないか。
私の思いを書くという(これ自体はまちがいではない)当時の価値観や認識から、所ゆきらは脱して、超然と、川柳味を書いていたのだ。近代という呪縛に絡めとられることのない位置があることを知覚している川柳人は少ない時代だった。

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