「本格」と「革新」のパイプになるという堀豊次の意志と啓蒙運動には様々な誤解がともない、それを呑み込みながらの活動は容易ではなかった。
どこであれ、豊次はよく喋った。喋らねばならなかった。一を言って十を知る人と、十を言って一すら理解せぬ人が居て、時に両者が同席する。一すら理解できぬ人はえてして努力を放棄して結論だけを問う。努力です、読みなさい、書いて投句で問いなさい、という結論は相手にとって結論ではない。ましてや選句は、投句者からは密室の作業と感じる。しかし豊次は上昇を目指す僅かな意欲を逃したくない。
後年、「川柳ジャーナル京都総会」の公開プログラムに、ある地方の大きな結社の主催者が来ると伝えられた。「xxはん(さん)が来やはる(来る)なら、それなりの待ち方をせんならん(せねばならない)」と、大きな結社の主催者が及ぼす影響力と指導力を豊次は意識したのだ。良き刺激を持って帰らせるプログラムなり準備が必要だというのである。総会の打ち合せを目的にするジャーナル同人のチンピラ石田柊馬と、戦後の河野春三に傾倒して社会性川柳を書きつづける(豊次の実弟で革新派を自認する)宮田あきらが居た。その必要はない、とあきらさんが猛然と反発。あきらさんに同意しながら、豊次さんの使命感が極端に現われたことにあきれたことがある。チンピラを前にして、二人とも引き方をしらぬ言い合いが数分あった。おなじ革新系の実弟にも理解できぬ使命感が、啓蒙の機会を見逃さぬ性急さで出たのだ。(宮田あきらは、河野春三を中心に発足した川柳ジャーナルから、春三が何度も後退した穴を松本芳味と支え、舞台裏の煩瑣な諸々を負って革新派を支えつづけた人。ジャーナル解散後も個人誌「縄」を出して川柳革新に殉じた川柳人であった)
「川柳平安」誌は、同人の創作欄と、一般的な川柳人の投句欄「蒼龍閣」、革新系の句の投句欄「新撰苑」の三つを作品の発表欄としていた。平安川柳社は一党一派に偏せぬことを姿勢としていたので、圧倒的多数の川柳界との交流を重く見る中枢部の中で、豊次は急進的な欲求や革新系を黙視する姿勢をとりながら「新撰苑」の持続を計っていた。革新系の話題、川柳界が問題にしない短歌や現代俳句や現代詩についてなどの話題には結社内ではほとんど触れなかった(つまり話題の通じることがなかったのだ)。若いわれわれは結社内での豊次の隠忍自重を知りつつ川柳界の、例えば句会や大会で大きな顔をしたり本格派を無視したり、旦那芸のような句を喜ぶ連中との付き合いを嫌う態度をとりながらいいかげんな遊び気分で句会のスポーツ性をたのしんでいた。いわば豊次の柔らかさと芯の堅さ下にあって豊次の姿勢を支持していたのであった。
「新撰苑」の投句者の多くは「蒼龍閣」の投句者でもあり、投句者の個々人がそれを自己撞着と意識せず、自分の書ける川柳の幅、質の違いと認識していたはずである。質の違いを指摘するような相互批評は無く、いまもほとんどの川柳人は発表媒体によって質の違いを使い分けている。おそらくこの状態には、川柳という文芸の性情が関わっていると思われるが、これは本稿とは別問題。ちなみに毎月の1日の平安川柳社の句会は兼題と席題あわせて十八句、15日の句会は十五句の出句であった。
ここまで長々と「本格」と「革新」とがあった状況と社会的な背景を書いたのは、堀豊次が「新撰苑」で活動した時節が、「革新」側の川柳が「本格」派や一般的な川柳界で書くことのなかった川柳を広範化した時節であったことを説明しておきたかったからだ。また「本格川柳」や川柳界の中小の結社が、員数拡張のちからを発揮しながらその川柳をマンネリ化させ、さらにその川柳が感動をもたなくなる、句材がいつまでも日常の表層に止まる方向へ向いたままのであったことを言っておきたかったのである。時代の潮流だけではなく、個々人の、川柳の質についての自覚の有無が、大きな懸隔として感じられた時節であったのだ。
もちろん両者の違いは明治期以来のものだったが、戦後十年以上の歳月を経て、日常生活に有った旧来の規範や習俗の淘汰が急速に進んだなかでの革新傾向の広汎化であった。前近代から近代へ、目の前の日常生活が変わったのであり、例えば家父長制度に向かって戦後の民主主義が真正面から否をつきつける時代であったのだ。そのなかの川柳であり堀豊次のパイプ役志向であった。
極端にいえば、手を下さずとも時代と現代川柳は、時代の変化にあわせて回転したのだが、その回転を堀豊次はあきらかに速め、加速させた。「新撰苑」が個々の投句者にとって全力投球で挑む選句欄であったからで――豊次はその質を読み分ける眼を具えていた。上位(五句投句で上位の二人か三人が三句入選、のちに投句者が増えてスペースが1頁から2頁に広がって三句入選者もやや増え、稀に、連作などで四句入選があった)に常連のように入選する何人かは、いわば全国区として名が通り、各地の大会の選者に招聘されるなどがあって(例えば定金冬二・寺尾俊平)、川柳界の耳目と革新派の評価を巻きこむエネルギーが「新撰苑」にあった。「新撰苑」が「蒼龍閣」と句の質が違うという概念は当時の一般的な概念だったが、質の違いが表出レベルの違いであることを知っていた川柳人も居たはずである。
全国区の作者の全力投球の場、その選者が平安川柳社において隠忍自重、しかも川柳界での名利に離れていたこともあって、難解といわれたり無視されたりしながらでも、その実績はやがて川柳界と革新派の両方に「新撰苑」と豊次というパイプを認めさせてしまうところにまで進んだ。
その時代がもたらせた左右の違い、保守と革新という社会的な概念の範疇で「本格派と革新派」という分け方が不文律のように被さっていたのだが、結果的には句の質の違いが明確に見えたのだ。世界や人間についての洞察力や文芸や文学性についての思考の違いが「新撰苑」にあったのだ。
もっとはやく、保革という見地から脱しておれば、両者のよってきたる質の違いが相対化できて、両者ともに上昇が見られたはずだが、―――ほとんど庶民という言葉が使われなくなって、社会に中流という意識が蔓延してゆく現実と保革の見地が減ってゆく現実とは反比例していた。もっとはやく保革や、本格と革新というところから抜けておれば、本格派の川柳がもはや日常の表層を書いても過去の佳作の形骸化になることを実感できたはずなのだ。さらに時を経てサラリーマン川柳に、ごく稀に面白い句があらわれることにくらべて、本格派にそれが無い要因をもっと速く見つめることができたはずなのだ。
いうまでもないが堀豊次の、一見曖昧で老獪な姿勢と認識にも保革や左右という捉えかたがあって、そのパイプに、ということであった。
ともあれ「新撰苑」は、充分に保革の違いという認識の上で展開され、革新側にこれを認めさせたが、本格側には、質の違いを認める川柳人や難解感に手を焼く川柳人や、黙視せねば自身の川柳を川柳と自覚できない川柳人や、極端な姿勢であんなものは川柳ではないとか、多数決原理で多数が拠っている結社こそ本流だとかのいろいろの態度があった。そして堀豊次は川柳界の内と外に隠忍自重と名利に関わらぬ姿勢を示しながら、「新撰苑」の選に、川柳界の状況を斟酌したり妥協することなく小さなスペースでの厳選を貫いて佳作を押し出し、「新撰苑」の存在感を提出しつづけることに成功したのである。豊次を信頼させたであろうリアリズムを確認する意味で、再度句を引いておきたい。
さくら咲いてる 子に自転車買ってやれない
自己批判乗るべき電車来て止る
ロバの腹 ふくれているは かなしきかな
パチンコ屋の鏡に写り 手を洗う
眼をとじると家鴨が今日も歩いている
資料が乏しいが「新撰苑」は昭和36年(1961年)に、所ゆきら選で始まったと思われる。手近にある同年2月号の「新撰苑」(所ゆきら選)のスペースは1ページで入選句数四十一句のなかに
雪は一個の研げるナイフを象る 毛利満若
青年一つの車輪にされてたまるものか
雪の街風はゆれる汚水を消化した
たくあんだけですませぬおふくろの重さ 石川重尾
共鳴の拍手へ俺をくれてやる
役人の父の鞄とすぐ分れ 中尾藻介
手をあげてくれない父に馴れた朝
などがある。やがて所ゆきらが病気になって堀豊次の選に替わるのだが、古典文学に詳しく現状の文学状況にも興味をもっていた所ゆきらは、無意識的にせよ豊次の志向を準備する選をしていたと思われる。

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