玉野の大会が終わった。
どのようなことを試すことができるか。リサーチできるか。信頼できる人の眼を経て、アカンならアカン、イイならイイと、結果のはっきり出るところとして「玉野の大会」が自分の中にある。
川柳の世界では和気藹藹や一緒に楽しみましょう、人数を増やしましょうという横移動があるが、、句を読んでそれっきり、何の意思表示もされず、読んだ句の質についての発語がほとんどないまま時を重ねていたのが、ようやく「読み」についての意識や認識がおもてに出はじめるところへ来ている。
一方、句会のシステムは、選者が「読み」の結果を明瞭に出すことをもって成り立っており、選者の「読み」の実質があきらかになるので、句の質についての言動をひかえねば組織の維持がアブナクナル結社が多い。つまり、良い選者が多くなければ川柳の質は前進せずに、無為を重ねるだけになる。
ここ数年の玉野の大会は、バックストロークの大会と共に質の向上に資する大会なので、個人的には思いっきりいろいろなことを試して、その結果がすぐに見える場所なのだ。しかも発表されれば会衆の反応を体感できる。畏敬する大先輩墨作二郎さんが、句会や大会の選者の質について言い続けておられることは、実にこころ強いことであり、組織の安泰や員数拡張のみに血眼になっている連中にはさぞ煙たいことだろう。今年も呼名が聞こえた。
今年の試行はおもいっきり露骨なものにした。発表誌が出るまではひかえねばならないが、「ぷにゅぷにゅとくにゅくにゅ」という言葉を兼題のそれぞれに一句ずつ書いた。というのは、バックストロークin仙台の前日に美術館で『ぐりとぐらのなかまたち――山脇百合子絵本原画展』を見て、その好日性を句に書きたかったからだ。食べ物を作る場面や、日の下でのピクニックなど複数での楽しい食事の場面が多くて、その一品一品が美味そうに描かれていて、実によかったのだ。
リアリズム一辺倒の見方からすれば、唾棄すべきつくりもの、世の中や人間のこころの好日的なもののみを拡張する作品としか見えないだろう。しかもそれは子供に向かって現実を歪めたり拡大したりする一方的な世界の押しつけとの見方もあるだろうが、大人たちに手をひかれて見ていた子供らは、充分に現代的なリアリストで、ゆめうつつになって、「ぐりとぐら」に感化されているとは見えない。「ぐりとぐら」の世界と現実とのちがいを承知しながら、フィクションと現実を往き来しているかに見え、ゆたかなものを得て美術館を出ると感じられた。杉作の危機を救いに来た鞍馬天狗は、現実の自分を救いに来ないことを、子供のときにこころえていた。ちゃんばらごっこは、ごっこと心得ていた。
もちろん政治的偏向やイデオロギーが加味される作品への批判や相対化は必定のことだが、そのような臭気のない、向日性を川柳の場で試みたかった。玉野の大会は、このリサーチに格好の場だ。「ぐりとぐら」は野ねずみだが、「ぷにゅぷにゅとくにゅくにゅ」の句は完全なフィクションで、しかも人間の二人を日の下に立たせたかった。テレビで幼児のからだが大写しになって「ぷにゅぷにゅ」という言葉を聴いた。うれしかった。玉野で試行してやろうと、こころに決めた。
昼休みに何人かで会場の近くのお好み焼き屋に行った。いまごろ八人の選者が、自分の試行を読んでいると思うと、胸に熱いものが膨らんだ。

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