自分を入れて、昭和10年代出生の人間は、戦前と戦中の社会規範、そこにあった人情を知覚しつつ、それが戦後の民主主義制度のなかで歪んだり無化されたりする風潮を、進歩と感じるところがあった。民主主義と近代的合理化、科学的視線が重なって、そこから人情が旧態の価値と感じられたのだ。新しいものが価値の上位になって、貧窮のなかでハクライはすべて新しさ、という価値を持っていた。そしてハクライ、近代化を倣うところの感情は、戦前にも戦中にもあった。例えば、戦前の、立身出世のための知略に楽天的で痛快な感情を撒き散らした『新書・太閤記』(吉川英治)。剣の道という、一般庶民には不分明ながらストイックな姿勢に共感を抱かせた『宮本武蔵』(吉川英治)などに、現世で自己実現を目指すここちよさがあり、欧米列強に伍して近代化を急いだ先の世代の意識への刺激が分っていた。
昭和10年代出世の世代は、これらを自身に内在しながら、例えば『沓掛時次郎』(長谷川伸)の、下層庶民が、やくざであることを恥ながら、恋情と義理と貧窮生活に苦しむ人情の交歓も、身をもって分っている世代であり、門付けの辛さを、土ぼこりの舞い立つ土の道の侘しさと共に知っている世代なのだ。もちろんそれが映画になると、ヒーローはもとよりバイプレーヤーや子役、ゲストの俳優や師弟関係などと、俳優の演じて来た数々の役の履歴が頭に充満していて、それぞれの名シーンが去来、身の内に熱いものがポッと点く感じになる。つまり、映画というカルチャーショックをモロに幼少期から思春期にかけて浴びたことだけでも、特殊な世代なのである。
かねがね、昭和10年代出生の人間と、映画やテレビドラマとの関係には、かなり特殊性がありそうだと思っていて、ときどき、これを石部明さんと話題にしたり、同世代では映画を沢山観ている楢崎進弘さんに声をかけて聞いたり、親友の田中博造や、岩村憲治さんとも、古い俳優などの回顧談を交わしたりした。映画やテレビドラマの話題のうしろに、共有する感情や価値観が部厚く流れているのを感じて頬がゆるんだり、世代の特有性にやすらぐものがある世代。
と、ここまでが、当ブログで、ときどき同世代に向かって放って見ようとする、もろもろについての、枕。
その初回。
BS放送で「ローハイド」が再放送されていて、ゲストのダン・デュリエなどが汚れ役で出て来ると、それだけで嬉しいのだが、先日、クリント・イーストウッドとウッデイ・ストロード、あのキャプテンヴァッファローが、挌闘する場面があって、これは涎のでる嬉しさ。なんだか儲かったという感じ。こんな観方が同世代の共通感情のひとつだが――
ところが、もっと凄いのがあった。ほとんど珍品。地元の局で再放送された「新・必殺仕置人」第11話。「助人無用」
このシリーズ、タイガースフアンで知らぬ人はモグリといえる超有名な藤村富美男がレギュラーで、ほぼ毎回1シーン〔元締の虎〕で出るのが嬉しいのだが、この回はゲストが嵐寛寿郎で〔天狗の鞍三〕。二人とも真正面から役の名前がメッチャ、ナンセンスなのがいい!
二人が絵馬堂で会うのだが、天狗と虎の睨み合う絵馬があるという設定。名前のナンセンスと併せて、なにもかも十二分にやりすぎで、その絵が稚拙なのも実にピッタリ、とにかく見ていて嬉しくてたまらない。アラカンはあいかわらず京都弁が残っていて、長唄での矯正が効かなかった往時を彷彿させてくれるオマケがついている。まあ、羅門光三郎をオヤマにでもしないとこれに勝つ珍品はできないだろう。
子供にとって鞍馬天狗は仰ぎ見る虚構の存在だった。川上と並び立つ藤村は、現実に仰ぎ見た生きた伝説だ。二人が画面に出て動いているだけで―――小学校の教室も校庭もアカチンのにおいも、父母のゆがみあいも、おやつの蒸し芋も、イジメにあった口惜しさも、借金取りと言い争う母も、これではとても映画は見せてもらえないなと暗澹とした子供時代が、それらすべて思考も脚色もナシに素直に自身のなかに仕舞いこんだことの豊さが、どんなグルメよりも美味として、ブラウン管に溢れるのだ。
もちろん、老いたアラカンが元コワイなりわいをしていて、復讐を思うものの虎や仕置人の目にはおぼつかない、という話しは、ちょっと古い映画を見ているひとにはオチまでわかり、そこへ落ち付くのを楽しみに待って、そのとおりとなるのだから、S10年代世代はひたすらアラカンそのものを上等のワインのように安心して愛でるのみの至福の数十分。
鞍馬天狗が、決して子供の自分を救ってくれるとは思っていなかったように、映画やテレビドラマの予定調和が、だからといって虚構の非現実の時空を狭めるようなことはなかった。だから、大人が川柳で、句意を予定調和に落ち付かせるなどは、世界の圧力に怯えてこころの落ち付かぬ怯えの証左だろう。
アラカンの鞍馬天狗や、物干し竿の藤村は、その後に来たリアリズム崇拝の一時節に決して潰えることがなかった。その証明が天狗と虎の顔合わせなのだ。
そして実は、リアリズム崇拝と、右肩上がりの経済社会に適う産業戦士、商業経済戦士の創出教育とは、表面的に対立するかに見えて、その実質は社会的な心性の位相で相補的でさえあった。
S10年代出生の目に、このところの映画やテレビドラマが、感動を描いているか刺激を描いているかの違いは、選別できる。とりわけ、安易に宇宙空間を舞台にしたり、逆に、日常生活で、いざこざや生活の些事をなぞるものの、無思想ゆえに主婦層の神経を刺激するだけの、視聴率だけが中央に座っているところの意識などは、一目で見透かせる。
歌舞伎や落語や狂言の演者が、予定調和や繰り返しを大切にして、新しい感動を創り出しているところには、アラカンや藤村富美男に通うものが漂っているのが感じられる。

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